「アベノミクスの源流を探る」(下)新自由主義政策を採った国々
今回の総選挙を安倍総理は「アベノミクス解散」と命名し、アベノミクスを争点に設定した。それが選挙に有利になると考えているからだろう。そこでそれほど自信を持てる政策なのかを、三本の矢の源流をたどる事で考察する。前回は第一の矢で あるリフレ政策と第二の矢であるケインズ政策について日本に何をもたらしたかを見てきた。今回は第三の矢の「新自由主義」について源流を探ってみる。 【写真】(上)「三本の矢」と歴史上の経済政策
初の「新自由主義」採用国はチリ
新自由主義はケインズ経済学を批判して政府の市場介入を排除する。その経済学はアメリカのシカゴ大学経済学部に受け継がれてきた市場原理主義を基調とするため「シカゴ学派」と呼ばれる。新自由主義を有名にしたのはレーガン大統領やイギリスのサッチャー首相だが、世界で最初に政策として取り入れたのは南米チリのピノチェト大統領である。従ってその顛末から探っていく。 実は世界で最初に選挙によって社会主義政権が誕生したのもチリである。1970年にアジェンデ大統領が民主的な選挙で選ばれ、チリは社会主義国になった。これにアメリカのニクソン大統領が衝撃を受けた。ニクソンは「社会主義は暴力革命でしか生まれない」と公言してきたがそれが覆されたからである。 アメリカはチリの陸軍総司令官ピノチェトを支援してクーデターを起こさせる。1973年にピノチェト軍事独裁政権が生まれ反対派は徹底して虐殺・逮捕された。アジェンデも亡命先で暗殺される。アメリカに後押しされたピノチェトは、アジェンデ時代の社会主義に代わる経済政策として新自由主義を史上初めて採用した。アメリカからシカゴ学派のエコノミストが招かれ、国営企業の民営化や大土地所有者に対する優遇政策が採られた。それによってチリは一時的な経済成長を成し遂げる。シカゴ学派のミルトン・フリードマンは「チリの奇跡」と絶賛した。 ところが新自由主義は富を一部の者に集中させて貧富の差を拡大させ、やがて経済は下降し始める。2年後の1975年に経済成長がマイナスに転じ、自由貿易によって国内製造業は壊滅、貧困率はアジェンデ時代の2倍の40%になった。1985年、ついにピノチェト政権は新自由主義を放棄し、シカゴ学派のエコノミストを追放、ケインズ理論の政策に軌道修正した。