このテーマに向き合うのに「47年必要だった」 映画監督・三島有紀子が描く【人間の中に巣食う罪の意識】
作品で見つめたかった “罪の意識”
――監督自身がもっとも強く投影されていると感じる大阪篇のみ、モノクロームで撮られています。大阪というにぎやかな街の特性や、登場する花のイメージもあり、余計にモノクロで撮られていることが際立っていました。 三島:事件の後、世界から色がなくなってモノクロになったことがあります。現実社会は全てモノクロで、映画館で映画を見ているときだけがカラーでした。映画を観るようになってすぐに世界はカラフルだと思うようになりましたが、前田敦子さんの演じた架空の人物であるれいこは30歳で、久しぶりに大阪に帰ってきた設定。そのときれいこには大阪はどう見えるだろう、もしかしたらモノクロなのかもしれないと。きっと簡単にカラーになることはないだろうと思いました。 れいこが口にする「なんで私が罪を感じなきゃいけないんだよ。やられたの私じゃん」との言葉が刺さりました。被害者が持ってしまう罪悪感を表した言葉です。 三島:作品を作るにあたって、自分の6歳のときのことから考え始めましたが、そのことをそのまま映画化するつもりはありませんでした。ではそのことを通じて、自分は何を見つめたいのだろう、一番の核はなんだろうと考えたとき、今おっしゃっていただいたセリフが核だと思ったんです。 被害者の“罪の意識”を見つめられる映画を作ろうと思いました。傷つけられた人、傷つけられた人の家族が持ってしまう罪の意識を見つめる映画です。
なぜ“被害者”以外も描いたのか
――本作は3篇で構成されています。なぜ3つの物語を描こうと思われたのですか? 三島:大阪篇のれいこだけで1本の映画にすることもできたかもしれません。でも自分はそうしたいとは思わなかった。もうちょっと多角的に見られたらいいなと思ったんです。たとえば、傷つけられた被害者がもし自ら命を絶ってしまったら、残された家族はどういう罪の意識を感じるだろうと考え、そこからカルーセル麻紀さんが演じた役が生まれていきました。でも大阪篇も洞爺湖篇もどちらも“傷つけられた側”なので、さらに罪を犯す側はどうだろうとも考えました。 ――そこから八丈島篇が生まれたんですね。 三島:最初は性的に誰かを傷つける人を考えてみたものの、自分の中で全然深まっていかなかったんです。そこでもっと自分事として考えてみました。自分は傷つけられて生きてきたと思っているけれど、誰かを傷つけていることもたくさんあるわけです。生きていれば傷も増えていくけれど、同時に罪も重ねていく。 ――まさに、八丈島篇に登場した「人間なんてみんな罪人だ」につながりますね。 三島:はい。日常の中で生まれそうな罪を考えていきました。そこから妻の延命治療を続けるのか選択を迫られた夫であり、かつて罪を犯した人間の子どもを宿してしまった娘の父という、哀川翔さん演じる誠の物語が生まれていったんです。一方で、誠や娘の海の結婚相手が、かつて性的な罪を生んだ人で、そんな罪人も誰かを愛し誰かにとっては大切な人である、という見方をしてくださる方もいます。