「日本人は議論が苦手」「民主主義が不得手」というのは一面的な見方である
日本人は「議論」してきたか?
宇野 『忘れられた日本人』でほかにおもしろいと思ったのが、寄り合いでの自慢や自分本位の発言をいさめる場面です。「皆さん、とにかく誰もいないところで、たった一人暗夜に胸に手を置いて、私は少しも悪いことはしておらん。私の親は正しかった。祖父も正しかった。私の家の土地はすこしの不正もなしに手に入れたものだ、とはっきりいいきれる人がありましたら申し出て下さい」。こう言うと、それまで強く自己主張した人が口をつぐんだというんですね。また、長老がいきり立っている若い人に向かって「足元を見て物をいいんなされ」と言って、その場をまとめる。 若林 これはすごいテクニックですよね。 宇野 この部分を読むと、民主主義を成り立たせるには議論が大変だと言うんだけど、日本の伝統社会にいくらでもテクニックはあるように思える。 人を傷つけることなく、平等性と対等性を維持しながら最後は納得して、「みんなで決めたことだから責任を持とうね」って、民主主義に関する僕の本と同じことがここには書かれている。それに日本人は議論が苦手、民主主義が不得手だというのは一面的にすぎる。 若林 おじいさんにこういう話を聞いたことがあるとか、過去にはこういうやり方をしたとかいうのは、体験の共有みたいな話ですよね。 宇野 僕はトクヴィルを研究しているから「アソシエーション」を強調するけど、「アソシエーション」の訳語は不幸にも、だいたい「結社」なんです。僕の世代はどうしても『仮面ライダー』で、「ショッカーは世界征服を企む悪の秘密結社である」という感じですからね(笑) 「アソシエーション」というのは、人と人がもっと対等の立場で、いろいろな目的に合わせて協力し合い、それで作る組織の意味ですから、もっといい訳語があると思うんです。福沢諭吉は慶應義塾のことを「社中」と呼んだのは、要するに対等なんだということを言いたかった。坂本龍馬は亀山社中とか、「社中」は「結社」より「アソシエーション」の訳語としてふさわしかったと思うのですが、それに近い言葉が探せば見つかると思います。 畑中 僕が書いた『忘れられた日本憲法』(亜紀書房)は、大日本帝国憲法が成立する以前に90の私擬憲法案があり、その中には共和制を示唆したものがあったり、女性の選挙権を認めろというものがあったり、死刑の廃止を主張したものがあったりしたことを掘り起こしています。 民俗社会、伝統社会の中に身を置いてきた人が、これから憲法を作って国会を開こうというとき、寄り合いで話し合ってこういった先進的な案を出している。これはつまり、近世の民俗社会には議論の習慣、伝統があったから90もの憲法案が出たせんじゃないかと僕は考えているんです。
宇野 重規/若林 恵(黒鳥社コンテンツディレクター)/畑中 章宏(作家)