あのころ「自由」は輝いていた ── 自由学園の建物と羽仁もと子
名建築の誕生には、建築家とそれを依頼する人物の出会いも重要な意味があるのかもしれません。 時代が創った国立代々木競技場、2度目の東京五輪はなぜうまく進まないのか 東京帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトが残した「自由学園の明日館」と、学園の創始者で日本の女性初ジャーナリスト・羽仁とも子にまつわる歴史を、建築家であり、多数の建築と文学に関する著書でも知られる名古屋工業大学名誉教授、若山滋さんが、振り返ります。 ----------
僕らは、フランク・ロイド・ライトが設計した東京帝国ホテルを知っているが、若い建築家はせいぜい明治村に移された玄関まわりからその姿を想像するばかりだから気の毒だ。特にあのバンケットホールの内部空間が失われたことは、世界の建築遺産にとっても大きな痛手であった。 しかし実は、現在の東京に、ライトの作品がほぼ完全なかたちで残っているのだ。 目白と池袋のあいだ、自由学園の明日館である。 ライトが助手の遠藤新とともに創った小作品であるが、むしろこちらの方が、ライトの初期の作風がよく現れていて、筆者の好きな建築である。この「木の文化の国」に、伸び伸びとして柔らかいライトの造形と日本の精緻な職人技術が融合した空間が残されたことは素晴らしい。前に述べたアーリー・モダニズムの傑作、木造モダニズムの傑作であるといえる。 ライトは浮世絵の蒐集家でもあり、日本文化に造詣の深い人物であった。プレイリー・ハウスと呼ばれる、水平に広がる、軒の深い、ライト独特の住宅の作風には、明らかに日本の住宅文化の影響が見られる。 彼は、ワルター・グロピウスやル・コルビュジエの無機的かつ機械的な機能主義に対して、大地に根ざした樹木のようなオーガニック・アーキテクチャー(有機的建築)を主張した。そういった点に、アメリカと日本に共通する「大地と樹木と生命の文化」が感じられるのだ。帝国ホテルは、鉄筋コンクリート構造で、大谷石とスクラッチ・タイルを使っているため、日本的なイメージは薄い。その意味で、この自由学園は、世界の近代建築史においても、きわめて重要な位置を占める作品であろう。