あのころ「自由」は輝いていた ── 自由学園の建物と羽仁もと子
自由学園の創始者は、有名な羽仁もと子である。来日中のライトを捕まえて、強引に設計を依頼したようだ。なぜライトだったのか、またなぜ彼が引き受けたのか。もちろんすでに高名な「世界のライト」だったからであり、十分な報酬があったからという解釈もあろうが、そこには「女性の自由」という問題が絡んでいると筆者は考える。 このころのライトは、施主夫人との駆け落ちが社会的批判を受け、仕事の依頼も激減して、失意のドン底にあった。建築家は、医者や弁護士と同様、クライアントの家庭に深く立ち入るので、その夫人との個人的関係は厳に慎むべきものとされている。 帝国ホテルの設計依頼は、そういったモラルにあまり敏感ではない日本だからこそであったかもしれない。さらに、もと子にとって、そのスキャンダルはむしろ逆に作用したかもしれない。羽仁もと子は、「元始女性は太陽であった」と『青鞜』を創刊した平塚らいてう(雷鳥)に先んじるといってもいい、女性の自由(家庭を重視しつつも)を唱える婦人解放ジャーナリズムの旗手であったからだ。そしてライトが設計を引き受けたのも、その思想に共感したからであるようだ。
羽仁もと子は、明治六年、青森県八戸市に生まれ、報知新聞を経て、『家庭之友』を発刊、『婦人之友』に改める。日本初の女性ジャーナリストであり、また家計簿の創始者でもあった。 一生に渡って、キリスト教(プロテスタント)を基幹としながら、女性解放運動とともに、自然と家族と生活をベースにした意志の自由(押し付け、詰め込みではない)による教育を貫いた。歴史家の羽仁五郎は娘婿、映画監督の羽仁進は孫、エッセイストの羽仁未央は曽孫に当たる。つまり明治から、大正、昭和を経て、平成にまで続く、脈々たる進歩主義の家系といっていい。われわれの世代は、羽仁進と羽仁未央のあいだに位置するのであるが、七〇年前後の大学紛争において『都市の論理』が全共闘のバイブルといわれるほどの支持を得たので、すでに高齢であった羽仁五郎の方に親近感があるのも面白い。