《ブラジル》日本の敗戦と「勝ち負け」抗争 《下》 裁判で国外追放や禁固刑はゼロ
1946年4月に野村忠三郎の殺人事件並びにアクリマソン地区の古谷重綱の未遂事件を解明するために調査が開かれた。捜査のリストにはほかの事件もどんどん加わっていった。調査を総括した政治警察(DOPS)のジェラルド・カルドーゾ・デ・メロ署長は3カ月間必死になって取り調べに没頭した。被告人、あるいは証人を含め、一千人以上の聴取を行い、直接調査などに携わったり、指図したりした。 訴訟書類には「臣道連盟」の本源と目的、行動の過程や組織の責任に当たる行為などを警察の視点からまとめ、さらにブラジル日本人移民の性格や考え方、立ち居振る舞いなどが記されていた。無署名の書類はカルドーゾ・デ・メロ署長により記録されたものと推定されるが、日本人移民についてほとんど無知であっただろうと思われる人物が「O Niponismo no Após Guerra -(訳注:戦後の日本主義)」と題する文章をあれほど極めて短い期間内に書き上げる事が出来たのが理解に苦しむところである。
要約すると、警察はほとんどの犯罪、特に死者が出た犯罪を「臣道連盟」の責任だと決定したのだ。 カルドーゾ・デ・メロ警察署長は1946年、6月26日にようやく「臣道連盟」事件調査終了を宣言し、政治・社会秩序に関する犯罪とみなされた故、エスタード・ノーヴォ独裁政権時代から行われていたように訴訟記録を内務・法務省に送るよう命令を出した。そして大統領政令により80名を国外追放、ブラジル生まれの子供がいた390名を起訴し、国内での刑務所入りを申し出た。 しかし、警察捜査が終了した後、「臣道連盟」の行為とみなされる犯罪が少なくても半年間に渡り、相次いで発生した。 上記の調査はそれまでのブラジルの司法史上最大の訴訟を引き起こした。だが、裁判の開始が司法権に関する官僚的問題で大幅に遅れ、1946年6月、ようやくサンパウロ第一刑事裁判所で正式に手続きが行われる事が決まった。検察庁が被告人を起訴したのが警察調査終了後の約4年もたった1950年4月の事だった。