《ブラジル》日本の敗戦と「勝ち負け」抗争 《下》 裁判で国外追放や禁固刑はゼロ
人々は実に底知れぬ自己欺瞞に満ち、飛躍的に増幅された慢性的な錯乱状態に陥っていた。ある説によるとそのような偽りはパラグァスー・パウリスタ市で結成された「赤誠団」を基に、1944年2月に「興道社」が成立され、そこから生み出されていたと言われる。 その組織には吉川順治元陸軍中佐、陸軍士官学校の同期だった山之内清雄元大尉などが加わっていた。彼らは故郷を離れた日本人移民が「臣民の道」という概念を失いつつあるという事を懸念していた。これが「臣道連盟」の胎動である。 警察での事情聴取で鉱山技師の根来良太郎(吉川元中佐と沖縄県出身の渡真利成一と共に組織を作り上げた3人のうちの1人とされる)によると「臣道連盟」は1945年7月22日、マリリア市で設立されたと述べていた。警察から秘密組織とされた数多くの団体の一つに過ぎなかったかもしれない。
だが、直ちに、そして疑いの余地なく最も重要なものとなってしまった。日本人移民が多かった特にサンパウロ州の各地に広がり、別に点在していた組織を全て吸収していった。「臣道連盟」には12万人もの会員がいると渡真利は警察に供述していた。警察側は日本移民の8割がこの組織を支持しているだろうと推定した。 組織結成時に掲げられた理念には、「ブラジル在住の日本人は皇室の臣民としての誇りを忘れず、大和魂を育むべきである」とあった。そのためには「勤勉、忍耐、勇気をもって祖国に奉仕する」といった、祖先から受け継いだ美徳を守る必要性が挙げられていた。 認識派と呼ばれる側で日本の戦争勝利とかのデマを阻止するための運動を開始したが、すでに遅かったか、挫折しつつあった。サンパウロでは連邦政府の臨時行政官がカンポス・エリーゼオスの官邸で事実を明らかにして日本人の心を落ち着かせようと会合まで開かれた。 双方の移民たちが参加したが結局失敗に終わってしまった。暴力はますます広がる傾向にあった。