《ブラジル》日本の敗戦と「勝ち負け」抗争 《下》 裁判で国外追放や禁固刑はゼロ
「貴方は大日本帝国の天皇陛下の悪口を言外す」と、ある『認識派』宛の手紙に書かれていた。「依って我等日本人の手で君等国賊に膺懲の銃剣を振るから君等も日本人ならその罪を悔い日本人らしく自決するが肝要だろう」と脅し、「自決し得ぬ時は参上するから『首を洗って』ゐろ」と(『首を洗え』とは封建制度時代に日本で斬首刑を意味する言葉)。この短信はブラジル日本人移民についての理解と知識を深めるに欠かせない一冊「Uma epopeia moderna」にて引用されている。 1946年3月7日の夜、バストス農業協同組合の専務理事であった溝部幾太氏が至近距離から背中を撃たれ自宅の裏で殺害された。犯人は過激派に属し、バストスの「臣道連盟」の指導者たちと連絡したことがあったと主張した山本悟であった。 1946年4月1日未明、サンパウロ市のジャバクァーラ地区在住の野村忠三郎が自宅で暗殺。6月2日にはサウーデ地区の脇山甚作元陸軍大佐が殺された。脇山は陸軍士官学校で吉川と同期だった。
終戦の結果についての対立に関連した日本人同士の殺人事件が最も多く発生したのが1946年の7月だった。一連の事件はブラジル人社会にも大きく反響した。連日新聞の見出しに現れた結果、ブラジル人が「臣道を殺せ」「日本人を絶滅させろ」と狂気になって街頭で叫び、日本人が経営する商店や日本人の家にナイフや斧、他にも武器になるものを持って襲いかかった。リンチの危機にさらされた日本人は警察に救出された。 このエピソードに関する最後の殺人事件は翌年、1947年1月6日にサンパウロのアクリマソン地区で起こった。的はスェーデン領事館の日本担当責任者の森田義一氏だったが、犯人は誤って森田の義兄弟であった鈴木正治を殺害してしまったのである。総括すると9カ月間で23人の日本人が死亡、86人がテロ行為で負傷した。その大半が「認識派」、いわゆる「負け組」の人々だった。 世界中が民族間の平和と調和を目指し、それを如何にして維持していこうと計らい始めていた最中に、日本人移民とその家族を巻き込んだ暴力と混乱、これらの数字はそのおぞましさを明快に示している。間違いなく、「払われぬ恥」を意味するエピソードだ。