ストリッパーとして”昭和の男社会”を生き抜き、「嘘」と「優しさ」で数多の人々を魅了してきた『”踊る菩薩” 一条さゆり』の最期
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第133回 『「昭和は過ぎ去り、ストリップの時代も終わった」…二代目・一条さゆりを「引退」に追い込んだ『時代の変化』』より続く
大阪・一心寺の「お骨仏」
加藤詩子は一条の死後、姉から頭骨の一部を預かり、一心寺(大阪市天王寺区)に納骨した。 1185(文治元)年に法然が開いた浄土宗の寺である。特徴の1つは、納められた遺骨で「お骨仏」と呼ばれる座像を造ることだ。 幕末から明治にかけ、大阪には地方から奉公に来る次男、3男が増えた。そうした者たちの一部は自分の住む街で先祖供養を希望した。 「一心寺なら宗派を問わない」。そう聞いた人々が、故郷の菩提寺から分けてもらった遺骨をこの寺に納めるようになった。 1887(明治20)年、時の住職、顕秀はそうした約5万体の骨を粉末にし、セメントと混ぜ合わせて阿弥陀如来像を造った。その後、「お骨仏」造りは定期化する。
「無縁仏になりたくなかった」
第2次大戦の空襲でそれまでの6体が亡失した。戦後、その破片に約22万体の骨を加え、第7期の骨仏が完成する。以来、ほぼ10年に1体ずつ阿弥陀如来像が造られてきた。都市化、核家族化が進み、墓を持たない人が増えた。寺がそうした人々の受け皿になっている。 一条は生前、釜ケ崎からそう遠くないこの寺を訪れ、自分の遺骨もここに納めてほしいと、加藤に伝えている。一条は無縁仏にはなりたくなかった。骨仏になることを願った。加藤はその希望をかなえた。 一心寺によると、骨が納められると、僧侶がすぐに手で細かく砕く。それをふるいにかけて粉状にし、木箱に入れて安置する。仏像に使わない骨の破片は地下に埋葬される。 京都の鋳物師、今村家の仏師が寺内のアトリエで約1年をかけ骨仏を造る。本体、光背、台座に分けて型を取り、粉末状の骨とセメントを混ぜ、型に流し込んで固める。型を外した後、彩色を施し完成させる。仏の丈は約2~2.5メートル、総重量は約400~500キロにもなる。 仏像造りと礼拝は共に善根功徳である。尊い故人の遺骨で仏像を造り、それを拝む。それは故人を供養しながら、同時に功徳を積むことになる。
『仏』となった“一条さゆり”
一条の頭骨は2007年、第13期の阿弥陀如来像となった。納骨堂には現在、第7期から14期までの8つの座像が並び、第13期の仏像はそのほぼ中央にある。 光を背に座禅を組んだ形の「一条」は、まぶたを閉じて、すべてを受け入れているように見える。下腹部付近で合わせた両手は、仏らしく柔らかな印相を形作っている。 開門中は誰でも納骨堂を参拝できる。骨仏に向かって手を合わせると、都会の喧噪を離れ、静かな時が流れていく。 一条は今、永遠の礼拝のなかにいる。 『「かつて日本は『ストリップ列島』だった」…『踊る菩薩』の著者が明かす、令和の時代にあえて“一条さゆり”を描いた理由』へ続く
小倉 孝保(ノンフィクション作家)