【甲子園100年物語(2)】「こうしえん」の先祖は「こうろえん」
1910年、大阪毎日新聞が関西での野球興行を企画した。 すでに関東では学生野球を中心に野球人気が高まっていた。07年には慶大と米国セミプロのリーチ・アメリカンとの対戦で、初めて入場料が徴収され、「興行」となっていた。リーチ・アメリカンは関西にも遠征し、神戸・東遊園地のグラウンドに観客1万人を集めたとされるが、一般市民への野球の浸透度は関東に及ばなかった時代。しかし、大阪毎日新聞は関西でも野球人気に火をつけようと、早大と米シカゴ大を招へいした。 当時、京阪神での野球の試合は大学・学校のグラウンドで行われていた。前述の神戸・東遊園地は外国人専用で、空いている時に借りていた。だが、この早大・シカゴ大を行う時は借りる都合がつかなかった。試合ができる広いグラウンドがない。そこで、大阪毎日新聞は阪神電鉄を動かして、香櫨(こうろ)園にグラウンドを造らせた。 「香櫨園」は今も駅名に残る。阪神電鉄本線で甲子園から神戸方面に4駅。その北、現在の阪急・夙川駅付近に広大な遊園地があった。大阪の商人、香野蔵治と櫨山喜一が07年に開園。博物館、音楽堂、動物園、さらに約50メートルの高さからボートがスロープを滑り落ちるウォーターシュートなど「一大歓楽郷」(「大社村誌」)のようなレジャー施設で、創設者の2人の名字の頭文字から香櫨園と命名された。阪神電鉄は香櫨園駅を設置し、園の経営にも参加していた。そんな関係から、大阪毎日新聞の要望を受けた阪神は、香櫨園内に野球用のグラウンドを造った。その「香櫨園球場」でで早大―シカゴ大が10月25日から3日間、3試合行われた。 とはいえ、わずか2週間で急造したグラウンド。フェンスもスタンドもない。丘陵地のため、左翼50~60メートルあたりからは下り坂だった。後方の打球を追ってボールを拾った左翼手が返球しようとしたが、内野の位置関係が見えず、どこに投げればいいのか分からなかったとか。それでも、関西初の「野球場」は大成功で、後の甲子園にもつながっていく。 ※取材協力=丸山健夫・武庫川女子大名誉教授
報知新聞社