パックン「貧しい母子家庭からハーバード大学へ。10歳から新聞配達を行い、同級生と比べてはつらくなった」
◆10歳から新聞配達に奔走 僕は1970年にアメリカのモンタナ州で生まれましたが、空軍勤務の父の転勤によりコロラド州にたどりつきました。姉と家族4人、安定した生活を送っていたところ、7歳の時に両親が別居し離婚。僕と母、姉の3人暮らしになりました。 その後、母が折あしくリストラに遭い、不安定な生活に。父からの養育費で、この頃は生活に窮するようなことはなかったのですが、僕が11歳の時、姉が父に引き取られ、養育費の支払いが止められてしまったのです。 そこからの生活は常にギリギリでした。テレビは人からのお古をもらって、壊れたらまた誰かがくれるのを待つ。牛乳は高くて買えないので脱脂粉乳。肉はパサパサした七面鳥のひき肉がメインで、たまに買えるチキンがご馳走でした。 学校では、空腹のあまり体調を崩したことも。そんな時、保健室の先生がくれた牛乳とクッキーがどんなにありがたかったか! 食べたとたんに頭痛が吹き飛んだことを覚えています。 アメリカは経済格差が激しい国なので、僕のような生徒がほかにもいたのでしょう。おそらくあの時の牛乳とクッキーは、先生がポケットマネーで用意してくれたものだと思います。
何よりつらかったのは、同級生と自分とをどうしても比べてしまうことです。 当時は、父親と一緒でなければ参加しづらい活動が多く、父のいない僕はアメリカンフットボール部やボーイスカウトには入りませんでした。道具を買うお金もありませんでしたしね。 また、家計を支えるために10歳から始めた新聞配達のアルバイトが、僕の時間を奪いました。配達は365日。2泊3日のスキー旅行のお誘いなどは、断るか、1日目で帰らないといけないのです。 友人たちとお泊まり会をした時は、みんながまだ寝ている早朝に抜け出し、新聞配達を済ませてから再度合流していました。悔しさのあまり、「クソッ! 新聞配達なんか大嫌いだ!」と叫びながら自転車をこいだものです。 でも、この気持ちを母にぶつけたことは一度もありません。なぜなら母のほうが何倍も大変で、つらい思いをしていたはずだから。毎日同じスカートをはいて、休みなく働いて――。 夜中のキッチンで小切手帳の残高を見ながら泣いていた母の後ろ姿は、今でもはっきり覚えています。 (構成=上田恵子、撮影=藤澤靖子)
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