他人を執拗に批難する人は、「叱ることの快感」に浸っている
自分では気づきにくい「叱ることの快感」
【佐渡島】僕が村中さんの本で学んで、「叱る」のをやめようと決心した理由がもう一つあります。それは、「叱る」ことが実は自分への報酬になっている側面があるという話です。 「人にとっての報酬は、その人が『欲しい』『やりたい』と感じるような、わかりやすい『ごほうび』だけではないのです。場合によっては本人すら気づかない『報酬』もあり得ることを私たちは知っておかなくてはいけません」(同p.50) この知見にはドキリとしました。これまで僕にとって、叱っているのは「自分のための時間じゃない」という意識だったんです。僕からすると、短時間で相手の注意を喚起させ、わかってもらうために、きつめの言葉で伝えている、と考えていました。だからそれは完全に「相手のための時間」だったんですよ。 でも、叱っていることで僕自身が疲れながらも気持ちよさを感じているとしたら、それは健全ではないし、その報酬は僕が受け取りたいものではない。これはやはりやめたほうがいい、と思えたわけです。 【村中】本にも書いたように、叱ることが報酬系回路を刺激しているって、自分では気づかないことが多いんですよ。しかし、「自分の行為には影響力がある」「自分が叱ることが相手を望ましい方向に動かす」といった感覚は「自己効力感」を高めます。心地よいからまたやりたくなる。依存性があるわけですね。 【佐渡島】「あなたのため」と言いながら、実は自分が気持ちよくてやっている、と。 【村中】そうです。さらに「処罰感情の充足」という報酬もあります。悪いことをしている相手を諫めているんだ、という意識が快感をさらにかき立てます。 私はそのことを「どこから来たかよくわからない正義」と呼んでいます。ネット上での誹謗中傷の書き込みなどもそうなのですが、自分の処罰欲求に突き動かされているときって、正義の側に立てるんですよね。正義の執行者になれる。だから歯止めが利きにくいのです。 だから社会的によくないことをした人の罪と、その人への過剰な人格攻撃や憶測に基づく誹謗中傷とは、分けて考える必要があるのです。 不正義に対して声をあげることが必要なときもあるでしょうが、その前にまず、自分の行為が自分自身の欲求を充たすだけのものになっていないか、自制する意識をもつことが大切です。最近はその自制する意識が働きにくい社会になってしまっているのではないかと、私は危惧しています。
村中直人(臨床心理士),佐渡島庸平(株式会社コルク代表取締役、編集者)