選手としての数字はなくても「水原 茂」が忘れられない存在である理由(小林信也)
水原茂は、戦前戦後のプロ野球を語る時、忘れられない存在だ。三原脩とは永遠のライバルと呼ばれ、高校、大学、プロ野球を通じ、共に時代を彩った。
高松商時代は投手兼三塁手、2度も夏の甲子園で頂点に立った。慶大では春夏通算5度のリーグ優勝に貢献。手首と肩の強さを生かして深く守る、守備範囲の広さが際立っていた。ボテボテのゴロを前進して素手でつかみ、そのまま下から投げる。MLBばりのプレーを日本に持ち込んだのは水原だといわれている。 松竹の看板女優・田中絹代との恋愛でも世間を騒がせた。水原の大ファンだった田中から電話をかけ、最初のデートは神宮外苑だったという。35年に結婚したのは女優の松井潤子。水原は時代を象徴する文字通りのスター選手だった。 一方、東京六大学野球史に残る“リンゴ事件”の発端になった選手でもある。 1933年、春秋通じ1シーズン制で行われたこの年の早慶戦。春の第1戦を慶応が取り、秋の第2戦は先発した水原が初回に早稲田の猛攻を受け9対1で敗れた。事件は翌10月22日の第3戦の終了直後に起きた。 序盤から点の取り合いとなり、6回に早稲田が逆転。慶応が追いつくとまた早稲田が突き放す展開。8回、早稲田が2点を取り、慶応がその裏1点を返し1点差。8対7で9回を迎えた。 水原が自伝『華麗なる波乱』に、8回裏からの出来事を記している。 〈八―七とリードされて二死一塁、当然の策としてぼくが二盗を試みると、はじめはセーフ。早大のアピールでアウトと言いなおした。その時ぼくが抗議した。その態度が早大応援団を刺激した。九回表の守備につくと、ぼくめがけて紙きれや果物の食いさしらしいものや、何かの切れっ端が盛んにぼくの周囲に飛んで来た。(中略)大きい果物の齧りかけが足元に転がって来た。ぼくはそれを拾って、守備している姿勢のまま手を逆に壁の方へ投げ棄てた。〉 その日たまたま3塁側に陣取っていた早稲田応援団がこの行為に激高した。 「水原が、故意にリンゴを俺たちに向かって投げた、敵対行為だ!」 しかも9回裏、慶応が2点を奪い逆転サヨナラ勝ち。つまり早稲田が負けたため不満と怒りが爆発した。一部の早稲田応援団が一塁側に押しかけ、塾長から贈られたばかりの指揮棒を奪った。今度は慶応の応援団が激怒した。ついには約8000人の応援団と学生らがグラウンドになだれ込み、もみ合いとなった。指揮棒を取ったのは他大学の生徒だったと判明するが、後の祭りだった。