『新宿野戦病院』宮藤官九郎が描く会話の理想的なあり方 実に巧妙な脚本の技術が冴え渡る
花火大会の会場で、聖まごころ病院で働いている時とは異なる姿の堀井(塚地武雅)を目撃した横山(岡部たかし)。8月14日に放送された『新宿野戦病院』(フジテレビ系)第7話は、第1話の段階から男性なのか、女性なのかと議論が交わされてきた堀井というキャラクターについての掘り下げが行われていく。 【写真】啓介(柄本明)と話す堀井(塚地武雅) とはいえ以前「どっちでもいいし気にしたことがない」と白木(高畑淳子)が言っていたように、パーソナルなもののひとつとして捉えれば、必ずしも掘り下げる必要がないところでもあっただろう。しかしあえてそれを“描く”選択をしたのには、ドラマ放送前にあった公式サイト上での堀井の紹介文で、「ジェンダーアイデンティティ」という言葉を誤用し批判を集めたことも少なからず影響しているのだろうか。根本的に理解していないと批判を浴びた以上、理解するために描く。それはいかなる題材においても決して悪いことではないはずだ。 もちろん本作の舞台が歌舞伎町であり、その混沌とした舞台設定において人種・国籍・性別・年齢・職業などあらゆる側面における“多様性”が強調されている以上、こうしたセンシティブな題材――もっとも、センシティブに扱われるものの多くが社会通念的に普通とされる価値基準によって排除された結果、センシティブなものとして仕立て上げられているだけのようにも思えるのだが――を扱うこともまた必然であろう。いずれにせよ、今回の放送前には公式SNSからジェンダーに関する悩みを抱える当事者へ向けられた配慮の一文が添えられていた。そこに記された通り、「物語の可能性の一つ」「堀井しのぶの生き方」として、そっと見守るべきところであろう。 さて、その堀井の母親との現在進行形の関係や、すでに亡くなっている父親との軋轢などが描写されていくと同時に、今回のエピソードでは独居老人の孤独死というテーマにも触れていく。序盤にアパートの一室で心肺停止の状態で発見されて運ばれてくる男性の一連は、第5話で描かれたホームレスのシゲさんの存在を反復させる役割も果たしている。また一方で、この男性の遺族は、父親が孤独死を遂げたことに対して複雑な心境で処置室に佇むのだが、病院にたむろしていた老人たちが皆友人であり、決して“孤独”な死ではなかったことを知ることになるのだ。 堀井の一連も、この独居老人の一連も、今回のエピソードで描かれるあらゆる事象は“話をすること”、すなわち会話/対話――それによってお互いをもっと知る――ことの必要性という面で共通しているのではないだろうか。事故を起こしてまごころに運び込まれてきた堀井の母。処置室で女性の看護師として母親の処置を行い、ヨウコ(小池栄子)や亨(仲野太賀)に自身のバックグラウンドを話す堀井。強要するわけでも聞き流すわけでもなく、自発的に話をする堀井に、「気になる」とだけ伝え、処置を適切に進めながらしっかりと耳を傾けるヨウコと亨。それによって複雑な感情が整理されていく、会話の理想的なあり方が示される。 また「お互いのことをよく知らなすぎるから」と、横山や亨は田島(馬場徹)が泌尿器科医になった理由を訊ねてみたり、亨が舞(橋本愛)とともにホームレスの支援に向かい、邪険に扱われても彼らの心を解きほぐすまで向き合うことも然り。もちろん舞と勇太(濱田岳)の“カルチャー”な関係に苛立つ亨の姿は、この三者の間にもっと会話の必要性があったということでもあろう。こうして作劇において極めてシンプルな会話・対話というものを複数、それぞれにドラマ性とユーモア性を与え、組み込んでひとつのエピソードを構築する。実に巧妙な脚本の技術は今回も冴え渡っていた。
久保田和馬