ライオネス飛鳥「会社から“おまえは強いけれど、面白くない”と」「長与千種というレスラーと融合して問題が解決できた」クラッシュギャルズ誕生秘話
80年代に全日本女子プロレスから誕生したクラッシュギャルズ。その活躍はリングのみならず、歌手デビューを始めドラマやバラエティ番組にも出演し、10代の少女たちを熱狂させた。その一翼を担っていたのが元プロレスラーのライオネス飛鳥さん。 Netflixシリーズ『極悪女王』では、ダンプ松本さんを中心に、ライオネス飛鳥さん、長与千種さんがクラッシュギャルズを結成し成長していく姿を描いている。いま再び脚光を浴びている女子プロレスだが、その渦中の人物であるライオネス飛鳥さんにとっての人生のCHANGEは?【第2回/全4回】 ■【画像】運命をともに生きた長与千種との、40年ぶり「クラッシュギャルズ」再結成時の貴重なツーショット写真 1000人以上の入団志望者の中から、見事合格し練習生となったライオネス飛鳥さん。空手経験もあり、運動神経も良かったため、周りからも一目を置かれる存在だった。 「練習生時代は、課題がなんでもできたので優等生やエリートと呼ばれていました。練習生の中で大森ゆかり(1980年入団・WWWA世界タッグ王者、WWWA世界シングル王者の実力派)も同じ扱いで、一緒に巡業に連れていってもらっていました。周りからは、“エリートはいいな”って言われていましたが、まだ新人だったので、2人で下働きを全部やらなければならなかった。 先輩もいましたが、売店やリングの設置なども行なっていたので大変でしたよ。巡業に行けなくて置いていかれたメンバーは、練習が終わったら自由な時間だったんです。それのどちらが良いとか悪いとかではなくて、やっぱり毎日試合ができるのはすごくありがたいことだった。だから結果を出せるように努力しました」 ──練習生からプロテストに合格するまでは、つらくなかったですか? 「ドラマとは違って、私はオーディションに合格してから3か月でデビューしたんです。同期の中で一番早いデビューだったと思います。でも自分としては、想定内でした。デビューの時期はそこまで気にしてはいなかったけれど、プロテストは一斉だったので。絶対に1回で受かるって決めていました」