【古代史ミステリー】神の依り代としての「鏡」の役割 古代人が鏡に託した祈りとは?
今回は自分をありのままに映す「鏡」について考えてみましょう。古代の人々は鏡にどんな想いをもっていたのでしょう? またどのように使ったのでしょうか? ■鏡のはじまりと古代の人々にとっての役割 鏡の発祥は水鏡だと考えられます。水面に映った自分の顔に気づいた時、人類は自分の姿を認知したのです。やがてさまざまな光学的な反射物を利用して鏡は作られ発展します。 火山由来の黒曜石は天然の黒いガラスです。割ると薄く鋭い破片になるので、古代人はナイフとして使いました。薄く割るとうっすら向こうが透けて見えるのですが、黒い塊の表面を平らに磨くと、光を反射してぼんやりとした鏡にも使えます。 人工的に生産され始めたのは銅と錫(すず)などの合金、青銅鏡からでしょう。古代中国で生産された青銅製の鏡は鏡面を丁寧に磨き、背面にはさまざまな文様や文字を鋳造します。年号が記されたものを紀年鏡(きねんきょう)といって、墳墓から出土するとその築造年代や被葬者の生きた時代、さらには交易の様子を推察させる物証となります。 日本の神社のご神体が鏡であることが多いのは、日本列島では鏡が神聖視されて来たことの証拠です。 太陽や月を信仰し、その光を反射する鏡は神の依り代として扱われたのは自然な成り行きでしょう。 『魏志倭人伝』の魏帝の詔に「卑弥呼の好物である銅鏡を選りすぐって100枚贈ろう」という意味のことばがあります。卑弥呼といえば邪馬台国、邪馬台国の時代といえば弥生時代末期ですから、弥生時代にはすでに鏡が神聖視されていたこと、重要な神事に必要なのに国内ではたやすく製造できない貴重品であったことがわかります。 それまでは銅鐸(どうたく)や銅矛を神の依り代としたり権力の象徴としたりしていたようですが、突然のように銅鏡がその立場にとって代わり、やがて鏡は墓に埋納されるようになります。 鏡の神聖視は古墳時代に受け継がれ、古墳からは三角縁鏡や画文帯鏡などさまざまな銅鏡が出土します。 奈良県の黒塚古墳や桜井茶臼山古墳などからは大量の銅鏡が出土しました。しかしながら神の依り代であり権威を示すものであるなら、なぜ多量の鏡が埋納されていたのでしょう? 被葬者の権威を鏡の枚数が示すのでしょうか? どうもすっきりしません。 ここからは私の妄想の世界に突入しますのでご容赦ください。弥生時代にもたらされた銅鏡は太陽の光を反射して、神官の持つ銅鏡が発するその光がすべてを清める神の依り代だったのではないでしょうか。集落レベルだった無数の邑国(ゆうこく)にもその儀式を務める神官や巫女がいたでしょうから、重要な神の依り代が宗主国から配られて、同じ神を祀る同盟の証とされたのでしょう。 やがて銅鏡の国内生産が始まると、王や神官だけではなく重臣たちも持つようになったのではなかったでしょうか。そして、自分が属する組織の重要人物が亡くなって埋葬される時、もしくは殯(もがり)の時に、太陽や月の光をそれぞれが持ち寄った自前の銅鏡で反射して、腐敗していく亡骸を清めたのではなかったでしょうか! そしていよいよ埋葬の時、参集した重臣たちはそれぞれの鏡を手にして亡骸に光を集めて送り、その鏡をそのまま副葬したのではなかったでしょうか? そうだとすれば、卑弥呼の時代に神の依り代として神聖視された舶載銅鏡は、やがて国産化されて量産されるとともに葬儀の神具と化したのではなかったでしょうか? 一方、弥生時代から続く鏡に対する神聖観は神社の発祥に伴い本殿の依り代として維持されますが、武具や馬具が重用品となるに従い副葬品目が変わり、さらに後、葬儀が仏教化されるにしたがって鏡の埋納習慣が完全に無くなった、と私は推理しています。 しかしながらこの妄想の最大の弱点は、銅鏡を持った人物埴輪が発見されていないことです。太鼓や笛などの形象埴輪や力士、巫女などの人物埴輪は出土しますが、鏡の埴輪は出土していないようです。ただし現物の銅鏡が古墳からは発掘されるのです。 とはいえ、光を反射すると文字や図柄が現れる魔鏡というものもあるので、反射光に何らかの霊力を感じて神事に使ったのは間違いないと思っています。 現代の住宅でも玄関に鏡を壁にかけることが多いと思います。それは出かけるときに身だしなみを最終チェックするという重要な役割を担うものですが、いまだに玄関に鏡を設置するのは魔除けであるという考え方もあるそうです。 三種の神器にも鏡が存在し、白雪姫にも不思議な鏡が登場します。『不思議の国のアリス』の続編『鏡の国のアリス』では主人公が鏡面世界に迷い込みます。地獄の入り口閻魔の庁にある浄玻璃(じょうはり)の鏡は亡者の一生をダイジェストで見せ、夜中の合わせ鏡から悪魔が出現するという話など、洋の東西を問わず鏡には不思議な力があると、人は思い続けているのかもしれません。 神聖な日の光を反射して自在に当てることができる鏡に、今も私たちは何らかの魔力を感じているのではないでしょうか。
柏木 宏之