金丸に「水に沈んだほうがいい」、毒舌の大秀才・宮澤喜一が記者たちに見せていた「驚きの姿」
今年2月、宮澤喜一が生前につけていた「日録」が発見された。40年にわたる行動の詳細な記録で、その史料的な価値は非常に大きいという。 【貴重写真】ゴルフを楽しむ宮澤、中曽根、安倍、竹下…自民党の権力者たち 日録の発見で再び注目が集まるこの「大秀才」、いったいどんな人物だったのか。
徳川慶喜に似ている
「議員会館の宮澤さんを訪ねると、体を傾けた独特の姿勢でよく英字新聞を読んでいました。で、新聞の陰からひょっこりと顔だけを出して『どうしましたか』と聞いてくるんです。クールで最初は取っつきにくかった」 宮澤喜一と30年以上つき合ってきた元時事通信記者の原野城治氏が言う。 東大から大蔵省というキャリア、能や漢籍に通じる圧倒的な教養を持ち、英語はペラペラで、しかも毒舌……「賢すぎて利害、打算が先に立つ」と池田勇人の秘書・伊藤昌哉が評した宮澤の独特のキャラクターは、同時代の議員のあいだでも好き嫌いが明確に分かれた。 宮澤といえば、'55年以来政権を担ってきた自民党が初めて野党に転じた際('93年)の総理大臣である。 「宮澤さんは自民党の15代総裁。徳川家の15代将軍・慶喜に似ていますよね。やや軽量級のトップが2代続き、『次は本格派だ』と期待されて就任したら、あっけなく体制を崩壊させてしまったところなどまったく同じです」(元日本経済新聞政治部長・岡崎守恭氏)
不運の宰相
このときの宮澤は統率力を欠いていたという評価もあるが、一方で「最後の将軍」となったのには、不運も影響していそうだ。 「当時はバブル崩壊後の経済の立て直しやリクルート事件後の政治改革など難しい課題が山積していた。難題解決のために能力の高い宮澤さんが引っ張り出されたという側面があるのです。その意味で、めぐり合わせが悪い」(前出・原野氏) 有能ゆえの挫折である。 '98年からは小渕恵三内閣で、その後は森喜朗内閣で、蔵相を務めた。当時、省庁再編で大蔵省が財務省となるのに伴い、庁舎に掲げる「財務省」という看板の揮毫を頼まれた。ほかの省では大臣が揮毫するなか、宮澤は「私は字が下手ですから」と固辞。前出の岡崎氏が言う。 「『下手』というのはウソ。書には相当の自信があった。海部(俊樹)さんが書いた字を『あれは字と言えるんですかね』と評したほどですから。 実際は愛着をもっている自分の出身官庁の名が失われるのが嫌だった。 閣僚なので決定には反対しないが、揮毫はしない。頑固さと矜持がにじんで、じつに宮澤さんらしいですね」