必要がなければそばにいかない…尾崎繁美さんが「愛する息子」に大切にする「距離感」
1992年4月25日、26歳の若さで旅立ったカリスマロックシンガーの尾崎豊さん。彼が突然旅立ってから今年で32年、33回忌を迎えました。尾崎さんと18歳で出会い、20歳で結婚、21歳で息子・裕哉さんを出産し、24歳で夫の死別を経験した妻の尾崎繁美さん。 【画像】尾崎豊さんの妻の繁美さんと息子でシンガーソングライターの尾崎裕哉さん 長く封印してきた豊さんとの想い出を解き、没後30年を機に連載『30年後に語ること』として発表。2023年7月からは、豊さんが旅立った後、息子の裕哉さんとともに歩んだボストン母子留学の日々を新連載『笑顔を守る力』として寄稿しています。 今回は、現在シンガーソングライターとして活躍する息子・裕哉さんとの親子関係と子育てについて後編も引き続き綴っていただきます。
母ひとり子ひとり、だからこそ距離感は必要
『笑顔を守る力』の連載で、「息子さんへの大きな愛を感じますね」といったコメントを多く頂きます。確かに、息子は私の命ともいえる、私にとっては最も大切でかけがえのない存在ですし、愛しています。息子が生まれてからの成長を見守ることは、私の喜びの源であり、そのために全力で支え、応援してきました。 ですが、子どもはいつかは巣立っていくものです。その日をドキドキワクワクと覚悟しながら、子育てしてきたように思います。 そして、今は息子も忙しいので、コンサートやイベントなどがあるとき以外は顔を合わせることもほぼありません。用事があるときだけ、LINEかメールで連絡します。 「意外」だと思われる方もいると思いますが、息子も今年7月で35歳になります。父親である豊が旅立った年齢を遙かに超えていて、当たり前ですが、息子がどんな人生を送るのかは自分自身で決めることだと思っているので、干渉しません。息子が日々幸せで健やかに生きていていれば、私はそれだけで幸せなので、必要がなければ息子の領域には踏み込まないようにしています。
「息子を守る」の本当の意味
でも、豊が旅立った後は、息子を守ることに必死でした。以前も書いたことがありますが、豊が亡くなった当初は、執拗なまでに根も葉もないことを媒体に書かれ、メディアで放送されたり、自宅にも毎日のように押しかけられました。一部のファンからは近所の壁や電信柱に「死ね」と落書きをされたり、脅迫文などの手紙で嫌がらせを受けたこともありました。 当時まだ小さかった裕哉は、幼稚園に通うのも大変でした。公園で遊んでいてもレンズを向けられることも多く、家の中で遊ぶことがほとんどでした。3歳の子どもが外で遊べない……。近所のお友だちのお宅にも自由に行き来できないという環境はかなり窮屈でしたし、身の危険さえも感じていました。裕哉には負担をかけないようにケアをしていたつもりですが、それでも子どもにとってストレスが溜まる状況であったに違いありません。 私は豊が遺した会社・アイソトープの仕事、著作物の把握に始まり、著作権関連の整理、相続関係のやりとり、そして、作品を守ることを役目とし、残された若いスタッフたちと共にファンクラブの会報誌の発行など、夜遅くまで仕事に追われていたのです。ちょうど1周忌が過ぎた頃、夜中に自宅の洗面所で顔を洗っていると、寝ていると思っていた息子が大粒の涙を目にためて、泣きながら私に抱きついてきて、こう言ったのです。 「僕にはパパがいないのに、ママもいないみたいだ!」 幼い息子の叫びを聞いた私は、何かの魔術から解けたかのように、ハッとしました。 当時、裕哉は4歳になったばかりで、こんなにも寂しい思いをさせていたなんて……。 「この子の母親はこの世でたった一人、私だけ。このままではいけない。会社を整理して日本を離れよう」と決意したのです。会社を大手のシンコーミュージックに預け、留学準備をして、ボストンへと移り住んだあの日。今考えると、あの時にあれだけの行動力とエネルギーが湧きあがったのは、とにかく息子の笑顔を守りたかったからです。