「刑務官の実弾射撃訓練、新人はもうやめます」意外に知らない刑務所の変化 監獄改良→国家が理想とする人間に→力による押さえ込み→事細かな規律→再犯防止へ
「実は明治時代の初期から『監獄改良』ということが言われてきました。 明治政府が近代化を進める中で、監獄の在り方も問われてきたからです。特に1894年の治外法権の廃止により、外国人が日本の法律によって裁かれるようになります。これは外国人が囚人となることを意味します。 法治国家として国際的に見ても適切な刑罰執行ができるよう、1872年にできた監獄則を変えていき、最終的に1908年に監獄法が制定されました」 ―監獄法は2006年に刑事収容施設法が施行されるまで維持されました。監獄法の制定で、処遇はどう変わったのでしょうか。 「1922年が変化のターニングポイントと言えます。監獄を『刑務所』、囚人を『受刑者』と呼ぶようになったからです。刑の内容をどう整理するかにまで射程が及ぶため、私はこれを『(刑を執行する)行刑改革』と捉えています。 刑の執行の在り方を巡り、旧派と新派と呼ばれる人たちの理念対立がありました。旧派は、受刑者の身体を拘束し、刑務所に入れておけば良いとする考えです。対して新派は、人には可塑性があるとの前提の下、受刑者を教育し改善させるべきだと考えました」
―新派は拘禁刑にも通じており、先進的な印象を持ちます。 「当時の司法当局は新派の考えを推進する姿勢を取っていました。ただ、天皇制だったことに加え、第2次世界大戦の影響も強く受け、人格を改善して国家の理想とする人間像に押し込める形になっていきました。 拘禁刑が新派の理念と全く同じではないという点にも留意が必要です」 ▽現代に受け継がれる管理行刑的な処遇 ―戦後は象徴天皇制となり、日本国憲法に基づく民主主義の社会となりました。 「1945年以降の処遇は『管理行刑』と表現できます。管理行刑をさらに細かく分類すると、1965年ごろまでを『保安管理行刑』、それ以降は『規律管理行刑』となります。 保安管理行刑は、過剰収容に対応するために発展した処遇です。主な収容者は若年層で、短期刑の人たちでした。暴力団の構成員も多く、施設内の保安を保つために、刑務作業に従事させながら、力で収容者を押さえ込んでいきました。