なぜ「世界最古の高層ビル」はシカゴにあるのか…129年前の14階建てビルがいまでも使われている理由
世界最古の高層ビルはどこにあるのか。国士舘大学名誉教授の国広ジョージさんの著書『教養としての西洋建築』(祥伝社)から紹介する――。 【画像】ダニエル・バーナム ■企業城下町としてのプルマン工業都市 さて、当時の米国でニューヨークに次ぐセカンドシティとして繁栄したのはシカゴです。ミシガン湖畔から運河で大西洋とつながっているシカゴには商品先物取引所が置かれ、全米の農産物が集まりました。 そのシカゴでは、第一次産業革命時のヨーロッパと同様、都市環境の悪化が進みます。そのため、フランスのゴダン共住労働共同体と似たような(しかしはるかに規模の大きい)試みも行なわれました。1880年代にシカゴ郊外で開発された「プルマン工業都市」です。これは、鉄道車両の製造を行なっていたプルマン社の「企業城下町」のようなものでした。 ゴダン共住労働共同体は1700人程度が暮らすコミュニティでしたが、プルマン工業都市は6000社もの従業員と家族が暮らす住宅を用意した文字どおりの「都市」です。従業員が働く工場があるのはもちろん、市場、教会、図書館、娯楽施設なども提供されました。1893年のシカゴ万博ではこの街が観光名所となり、1896年には「世界でもっとも完璧な都市」として国際的に表彰されています。 ただし1890年代の金融恐慌後には、従業員の待遇をめぐってストライキやボイコットなどの労働運動が発生。企業がそこで暮らす人々の生き方を決めることへの反発も生じました。1898年には、イリノイ州の最高裁判所が「企業に都市を造営する権利はない」として、会社のビジネスに不要な不動産を売却するよう命じます。そのためプルマンの社宅は、1909年までに売り払われました。
■次々と高層ビルを生んだ「シカゴ派」 プルマン工業都市はシカゴ郊外での試みでしたが、シカゴそのものは、この頃から米国建築文化の中心地として注目される街となっていきました。 ひとつのきっかけとなったのは、1871年10月に起きたシカゴ大火。 残念な出来事ではありますが、大きな火災を契機に都市が新しくなることはよくあります。たとえば東京の銀座煉瓦街は、1872年(明治5年)に起きた銀座大火の後、燃えにくい都市になるべくつくられたものでした(それも関東大震災で焼失してしまいましたが)。その前年に大火を経験したシカゴも、耐火構造の建物につくり替えられていきました。 また、経済発展によって人口が増え、オフィス需要も高まってくると、かぎりある地面により多くの空間をつくるために、高層ビルが必要になります。郊外につくられたプルマン工業都市はいわば「横」への展開ですが、こちらは「上」に伸ばしていく。 それまでニューヨークではせいぜい5階建てのビルしかありませんでしたが、シカゴでは10階以上の高層オフィスビルが次々と建てられました。鉄骨構造やエレベーターの進歩によって、技術的にもそれが可能になっていたわけです。 ■鉄骨、エレベーター、頑丈な外壁… この本でも見てきたとおり、ギリシャ・ローマ以来、西洋建築の主役は神殿、教会、宮殿、博物館、図書館といった公共的な建物でした。 しかしシカゴの高層建築は、オフィスビルが主役。それ以来、今日にいたるまで高層オフィスビルは建築家にとって重要なテーマのひとつとなっています。その意味で、商業都市シカゴは西洋建築史にひとつの新しい潮流を生んだといえるのではないでしょうか。そこで活躍した建築家たちは「シカゴ派」とも呼ばれています。 そんなシカゴの高層オフィスビルの中でもよく知られているのが、この時代の米国を代表する建築家のひとりであるダニエル・バーナム(1846~1912)が手がけた「リライアンス・ビル」(1895年完成)です。バーナムは、1893年のシカゴ万博でも総指揮者を務めました。 リライアンス・ビルは14階建て。鉄骨の芯を上から下までジャングルジムのように張り巡らせた構造になっています。広く取られた窓を含めて、外壁構造が薄いのも従来のビルとの大きな違い。高層ビルは風圧に耐える頑健さが必要ですが、さまざまな技術の進歩によって、軽い外壁でもそれが可能になりました。