2歳愛娘が白血病で「サッカーを諦めかけた」長野パルセイロ・砂森和也が語る“サッカー界への感謝”
’23年5月13日(土)は長野のJリーグファンが最も燃え上がる「信州ダービー」、長野パルセイロvs.松本山雅FC戦が組まれていた。J3第10節として、パルセイロのホーム、長野Uスタジアムで18時にキックオフされた。 【画像】な、泣ける……!引退も考えた砂森選手へサポーターが贈った言葉 パルセイロに移籍して1年目だった砂森和也(33)もメンバー入りしており、山雅戦を楽しみにしていた。 「長野に移籍した理由の一つに、ダービーに出たいという気持ちがありました。J3で1万人も入る試合は、他にないと聞いていましたし」 その一方で、数週間前から体調を崩している2歳の娘を案じていた。 「4月の頭くらいから、熱が引かなかったんです。最初は自宅近所の小児科に行って、解熱剤などをもらっていたんですよ。ところが、一旦熱が下がっても1週間後にまた発熱したり、40度を超える高熱が4日くらい続いたりと、おかしいなという状態が1ヵ月くらい続いていたんです。 心配なので夫婦でネット検索を始め、同じ症状の人を調べて……。ひょっとしたら、白血病かな、嫌だなと感じていました。ですが、何軒か病院を回っても、原因は分かりませんでした」 パルセイロに加入する前の4シーズン、砂森は鹿児島ユナイテッドFCでプレーしていた。当地で子供たちの掛かりつけだった小児科のドクターに電話を掛ける。 「やっぱり腑に落ちなかったんで相談したんです。そうしたら、『紹介状を書いてもらって、一度大きい病院で検査してもらったほうがいい。ゴールデンウイーク前には行くべきだ』と助言されて、急遽、長野赤十字病院に行った感じです。結局、連休後になってしまいましたが。 土曜日でしたから、午前中に病院に行かないと翌日は休みになってしまうので、妻が娘を連れて行ったんです。僕は自宅で検査結果を待っていたのですが、なかなか出なくて、クラブに向かう時刻になって移動しました。それで、チームのメンバーと試合前の軽食を食べようとしていた時に、妻からの着信がありました。『日赤の先生から、すぐに輸血が必要だと言われた。ヘモグロビンと血小板の数値が極端に低い。異常な値だと説明された』と。その時、正確な病名は告げられなかったのですが、数値を鑑みれば白血病の疑いが強い…と聞かされました」 妻は嗚咽をもらしていた。 「出場メンバーに入っていましたが、間もなくチームバスが出発する時間だったので、軽食を摂らずに強化部と話をして、試合には出ずに病院に駆け付けました。自分の車で向かいました。頭の中が真っ白で、どうなっちゃうんだろうと……。不治の病なのか、治らないレベルなのか、と考えながら20分くらい運転しました。哀しいというより、真っ白でした」 病院に到着すると、妻は緊急外来の一室でグッタリした娘を抱きかかえていた。 「その時点ではまだ、正確な診断結果が出ていなかったんです。そこから、松本市の病院に救急車で運ばれました。妻は泣いていましたが『俺たちがしっかりしなくちゃいけない』と話したことを覚えています。 僕の両親も松本山雅戦を見るために長野に来ていたので、両親と息子を乗せて松本の病院まで救急車を追いました。病院に到着しても、コロナの影響で、息子も両親も病棟に入れなかったんです。僕は、入院の手続きとか準備をバタバタしながらやりました。詳しい検査は週明けまでできなかったから、どういう病気なのか、治るものなのか、ちゃんとした診断結果が出るまで不安な日々を過ごしました。輸血をしながら、検査結果を待っていたんです」 不安で押しつぶされそうになりながら、妻は娘に付き添う。 「僕は息子と帰宅しました。妻と娘が帰ってくるまで、息子と2人で生活をしていくのですが、日常とは全然違いました。息子は息子で『何でママと妹がいないの?』という感情を持ちますよね。僕が冷静にならなきゃいけないのに、内心、心配で…。翌日から、年中の息子を幼稚園に送り迎えしながら、片道1時間半高速を飛ばして病院に行く生活になりました。一人でハンドルを握って病院と自宅を往復する間は、涙が出てきましたね」 料理、掃除、洗濯等、全てを妻に任せていた砂森だが、息子との2人生活では必然的に自分がこなさねばならなくなる。 「キッチンにほとんど入ったことのない人間でしたが、やるしかないじゃないですか。凝った料理が作れないので、ご飯、魚、野菜と素材のまま出す程度でした。まぁ、アスリート飯みたいなものですよ。蒸し鶏とか作りましたが、レパートリーがなさすぎて、揚げ物なんてできません。息子に『またこれ?』なんて言われながら作っていました」 この時、砂森の胸を覆っていたのは、大人が感情の乱れを見せてしまったら、子供に影響が出る。2人暮らしだ。努めて、普段通りに過ごそう、という思いだった。 「息子に妻、娘のことを聞かれる度に『すぐに帰ってくるよ』と濁していました。ただ、夜になると『今日も2人だけの生活?』『まだ帰ってこないの』と繰り返すんです。そのうち、発熱したり、蕁麻疹が出たりと、体に変調をきたすようになってしまいました。 これはマズイと、クラブには活動休止を願い出ました。娘に付き添うのは妻がやってくれている。今、自分ができることは、息子にストレスが掛からない環境を作ることだと。可能な限り、うまくバランスを取ろうと心掛けました」 ’23年6月16日、パルセイロは砂森の活動休止を公にする。 「信州ダービーを抜けた日、クラブは『もう、サッカーのことはいいから、身の回りを整えよう。入院先も、お前の動きやすいところにしろ。実家が千葉なら、千葉のほうがいいんじゃないか。一番信頼できるところに行け』と言ってくれました。当時の監督、シュタルフ悠紀さんが、自ら病院を調べてくれたりもしたんですよ。家族を大事にする監督で、ものすごく理解がありましたね。だからこそ、決断できました」 娘が入院してから数日後に診断結果が出る。 「先生から別室で紙を見せられました。あぁ、やっぱりと、現実を突き付けられた感じですね。どういう治療をどんなスパンでやって、辛い治療がこのタイミングでって、状況を理解するのって、大人側じゃないですか。 娘の辛い顔を見るのは、こっちもシンドイわけですよ。だけど、治る!どんなにキツくても前を向いていこうと、自分にも家族にも言い聞かせていました。妻には、何とかプラスに考えようと話しました。そうは言ったものの、メンタルがやられてしまってもおかしくなかったかもしれません。僕も一人になると、涙が止まらなかったこともあります。でも、自分以上に辛いのは娘ですから、それを見ていたら、我が子の前で落ち込んだり、苦しい姿は絶対に見せてはいけないと思いました。頑張っているのは娘であり、突然日常を奪われた息子でしたからね。そこは、自分の仕事を捨ててでも、家族に普通と感じてもらえる振る舞いをしようと、常に考えました」 やがて治療が始まる。 「抗がん剤が合う、合わないは人によって違うものでしょうし、この治療をやれば治ります、というものではなかった。試しながら、その結果を見て、次を考えるんです。見えない道をどんどん進んでいって、拓けたほうに進む。前が見えないまま進んだ感じですね。 入院して2ヵ月後くらいに抗がん剤の副作用で、膵炎になってしまったこともあります。ちょうど、僕が一緒に病院に泊まった日でした。ずっと夜中にゲーゲー吐きながら、眠れない娘を目にするのは辛すぎました。絶飲食だったので、それも可哀相で。また、抗がん剤の副作用で髪もどんどん抜けていきました。ベッドの横にいると、本当にポロポロポロポロ髪が落ちてきて、コロコロ(※粘着カーペットクリーナー)でずっと拾っていって……」 ジェフユナイテッド千葉のジュニアユース、ユース、順天堂大学、本田技研、カマタマーレ讃岐、アスルクラロ沼津、鹿児島ユナイテッドFC、そして長野パルセイロと渡り歩いてきた砂森を支えようという動きがサッカー界に起こる。仲間たちは、すぐにでも募金活動を開始したいと提案してきた。 「とてもありがたい話でした。ただ、葛藤もありました。同じ病棟にも、厳しい治療を頑張っている子がいる。僕はサッカー選手だから、もしかしたら募金が集まるかもしれない。けれど、苦しんだままの家族もいれば、僕たちを羨む人が出るかもしれない。娘を案じながら、そういう心配をしました。 ほどなく、Jリーグ選手会が口座を作るということになり、35チームからの募金が集まったようです。嬉しい反面、どういう感じ方が適切なのか悩みました。そんな時、先輩の馬場賢治さんが『俺たちは勝負の世界に生きていて、来年クビになるかもしれない。一般企業と違って福利厚生もないし、保証だって何もないなかでやっている。今回は、サッカーの輪で手を取り合ったんだから、受け取ったらいいじゃないか』と言ってくれました。それで、周囲の温かさに甘えてもいいかなと思えたんです」 ’24年1月下旬に砂森の愛娘は退院し、通院に切り替わっている。’24年4月からは、幼稚園の年少クラスに入園した。砂森もまた昨年11月からチームに復帰した。 「正直、娘が入院したばかりの頃は、もうサッカーができる環境にないと思っていました。病院に行くのも、治療費を捻出するのも大変です。完治と言えるまでに数年かかりますから、不安が消えたことはありません。そんななかで、サッカー界が差し伸べてくれた支援の輪は、経済的な助けプラス、チームを超えた絆――相手チームが横断幕を出してくれたり――勇気と力っていうか、そういうものを頂きました。この輪の中に身を置けて、自分は本当に生かされているんだ。サッカーって、こういうものなのかと学ばせてもらいましたね。 いつも僕らはサポーターに感動を届ける立場にいるように感じていましたが、こちらが苦境に立たされた時の声援やSNSのメッセージで、ピッチ外でこれだけ励まされるんだということを感じました」 砂森は今、プロサッカー選手として日々の戦いに身を置きながら、周囲から受けた恩恵をどのように還元すべきなのかと、熟考している。 「闘病する側の気持ちを知っているので、どうしたらいいのか、いかなる道がベストなのかと、考えますね。ですので、まずは献血や、その啓発活動、骨髄ドナーの呼びかけ等をやっています」 パルセイロの左サイドバック、背番号48の砂森和也。プロサッカー選手として、夫として、2児の父として、長野の地で生きている。3歳になった娘はいつの日か、自分がどれだけ周囲の人に愛され、病を乗り越えたかに気付くだろう。 取材・文:林壮一 1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。
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