ダウニーJrやエマ・ストーンは「レイシスト」なのか? アカデミー賞「アジア人差別騒動」“先入観”に目を曇らされずに考える
先入観で他人を断罪する落とし穴を描いた『落下の解剖学』
ただ、今回の騒動にマイノリティへのマイクロアグレッション(無意識の差別)や透明化の弊害を見いだすことと、ロバート・ダウニーJr.、エマ・ストーン、ジェニファー・ローレンスをアジア人蔑視の差別主義者と決めつけることには大きな乖離(かいり)がある。その2つを切り分けて考えないと、取り返しのつかない落とし穴にハマってしまうのではないか。 とりわけ皮肉に思えるのが、昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したフランス映画『落下の解剖学』が、今年のアカデミー賞でも脚本賞に輝くなど高い評価を得たこと。同作ではドイツ人の女性作家が転落死した夫の殺害を疑われ、フランスの法廷に立たされる。監督のジュスティーヌ・トリエは法廷ミステリーの体裁を借りながら、いかに人は先入観や印象で他人を断罪してしまうのかという「認知の歪み」を浮かび上がらせていく。 状況証拠しかない中で、検察側は女性作家のスキャンダラスな不貞行為や、著した小説の記述から殺人行為を立証しようと試みる。いや、それでは理論的に立証は成り立たないのだが、「いかにもやりそうである」というイメージの植え付けによって殺意の存在を証明しようとするのだ。やがて裁判はイメージ対イメージの泥仕合となり、無責任な報道は加熱し、当事者しか知り得ない“真実”は置き去りにされていく。 普通のミステリー映画なら「事件の真相はコレでした!」というオチを用意するもの。しかしトリエ監督は、真相は藪(やぶ)の中に置いたままで、誰かを「裁く」行為のあやふやさと危うさを突きつけてくるのである。 改めて、今回の騒動にアジア人軽視や差別の問題を重ねて語ることは可能だし、不適切なふるまいを批判することもできるだろう。しかしテレビ中継で放送された数十秒の映像を証拠として、特定のスターを差別主義者だと糾弾するのはさすがに乱暴が過ぎる。そして騒動は一過性だったとしても、一度ネット上で貼られた「レイシスト」というレッテルは、現実から遊離したイメージとしてくすぶり続けるのだろう。