50年間読み返して痛感…日本国が続くかぎり、「永遠のエッセイ文学」として残ると思う「作品の名前」
春は、もうちょっと暖かい時間帯がいいんじゃないか
枕草子を、ときどき読み返す。 いまは「エッセイについて」というお題で人に書き方を教えてくれと頼まれたこともあって、(なんで引き受けたのだろうとつくづく後悔している)また読み返していた。 【画像】日本で暮らす外国人がこぞって「サイゼリヤ」を絶賛するワケ 「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく」から始まる冒頭部分は、多くの日本人が覚えている一節だ。 口調で覚えているから、内容へのうたがいがない。 春はあけぼの、そういうものだとおもっている。 夏は夜で、秋は夕暮れ。たしかにそうかも知れないとおもう。 でも実際、あらためてリアルに想像すると、よくわからない。 陰暦の春は、いまよりも少し前の時期だから、二月の後半はもう立派に春で、だからかなり寒い。いまの二月の夜明け前はかなりぶるぶる寒いとおもう。 そのとき、エアコンの効いてない京都の市中から、東山のほうがしらじら明けていくのを眺めていても、寒いなあ、としかおもわない気がする。 春は、もうちょっと暖かい時間帯がいいんじゃないかと、ふとおもったが、そんなこと口にしたら、はあ? とファーストサマーウイカの顔をした清少納言にキレ気味に詰められそうで怖いので、小さい声で言うことにする。 でも、春は曙、ですなあと誰かに同意を求められれば、まことに実にそうですなあ、と日本人らしく合わせるとおもう。 まあ、それぐらい国民的合意を得ているフレーズである。 枕草子は、歯切れがいい。
心地いい強さとリズム
春は夜明け前がいちばん良くて、夏は何といっても夜だ、という断定には清々しさがあって、千年を越えて口伝わる心地いい強さがある。 リズムもいい。短い文章に畳み込まれていく。 ちなみにこの章段の最後が「わろし」で終わるのは、つまりはオチなのか、と最近になって気づいた。最後まで読んでくすっと笑うと、サマーウイカの顔をした清少納言が喜んでくれそうな気がする。 枕草子は自分の好きなもの、いいとおもうものを並べるくだりがある。 「上品なもの」「かわいらしいもの」「むさくるしいもの」など、清少納言が取捨選択したものを並べる章段や、ただ「山、峰、原、御陵、渡り、淵、海、池」など、固有名詞を羅列する章段がある。やはり断定的で(というか断定そのもので)、なかなか心地いい。 それ以外には、中宮定子に仕えていたころ、日本のトップ貴族たちが出入りしていた空間について詳しく書いている部分がある。 ここは、そんなに短く刈り込まれていない。 でもおもしろい。 公卿トップクラスの、つまり政府中枢要人の恋愛模様などもそこはかとなく描かれており、興味深い。 特に令和6年になって大河ドラマ『光る君へ』が放送されてから見ると、いままで古典としてしか読んでなかった人たちにリアルな色彩が与えられて、読み直すと勝手に顔が浮かんで、とてもおもしろい。 ただまあ、はんにゃ金田の藤原斉信はいいとしても、藤原実資が日焼けしたロバート秋山というのはちょっとイメージが違いすぎて(すぐに梅宮辰夫に変身するんじゃないかという想像が止められない)、笑ってしまう。私は好きだが、ちょっとあれはない、と言っている研究者がいた。 枕草子は、その内容が広範に及んでいる。