【世界が注目】「日本のいちばん長い日」「肉弾」…“戦中派”映画監督が描き続けた戦争の生と死、ETV特集『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』
ETV特集『生誕100年 映画監督 岡本喜八が遺(のこ)したもの』(12月7日)は、戦争による生と死を描き続けた、奇才あるいは鬼才と呼ばれたひとりの監督に光をあてた、上質なドキュメンタリーである。日本映画を代表する監督は、小津安二郎や成瀬巳喜男らばかりではない。世界はいま岡本喜八を発見しつつある。 【写真】発見された戦時下での岡本喜八の日記
「戦争体験としてはまことにチャチだった」
岡本喜八作品は、4Kデジタルリマスター版の制作も進められ、欧米などでの販売を前提としている。生涯で39本の映画を撮影した喜八は、そのうち半分が戦争にからんだ映画である、と語っている。 米軍による日本本土に対する空襲が本格化した1945(昭和20)年の4月、のちに映画界の奇才あるいは鬼才と呼ばれた、岡本喜八は旧豊橋陸軍予備士官学校に入校した。岡本ら先遣隊がこの月末に予備士官学校に到着した直後、多数を失う米軍の攻撃を受けた。 喜八は偶然にも死を免れた。しかし、周囲には片腕、片足を失った兵士や頸動脈から出血している兵士らで阿鼻叫喚の地獄絵となった。 「戦争体験としてはまことにチャチだった。しかし、青春体験としては、それなりにまことに強烈だった。まこと生死は紙一重」と、喜八はエッセイにその時の衝撃を綴っている。 予備士官学校で敗戦を迎えた喜八が、故郷の米子市に帰ってみてさらに、戦争における生と死を分けた実態に直面する。「愕然としたのは、町内のいわゆる餓鬼友達が一人も帰ってこなかったことである。(明治大学専門部の前に卒業した)米子商蚕学校の同級生50人中半分の25人が帰ってこなかった。そのほとんどが、私が入隊してから8月15日までに戦死したという」。
喜八は戦前に入社を果たしていた東宝に復帰する。助監督を15年間務めて、監督デビューは58年、34歳だった。 その後、『日本でいちばん長い日』(67年)によって、監督としての地位を固める。敗戦に至る8月14日から15日にかけて、天皇や陸海軍、重臣たちがどのような行動をとったのか。緊迫感あふれる長編大作である。 昭和天皇があらかじめ終戦の詔勅を録音した、いわゆる「玉音放送」の録音盤をめぐって、陸軍の一部将校が動いたのに対して、現在のNHKが放送にこぎつける。喜八の代表作のひとつである。