祖国訪問で芽生えた民族意識と野球への情熱 初対面で抱き合い、わんわん涙を流す役員たち 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<9>
《昭和33年、浪華商は大阪大会決勝で寝屋川を破って、2年ぶり10回目の甲子園出場を果たしたが、1回戦で魚津(富山)に敗退。そんな折、出場を絶たれていた張本さんに朗報が届く。日韓親善野球メンバーに選出され、韓国を初訪問した》 日韓親善野球は私の年が3回目でした。メンバーは在日韓国人の子供たち、あるいは日本国籍に変わっても、北朝鮮の籍でも甲子園に出られなかった生徒を全国から集めていた。甲子園の夢が断たれた後でしょ。また野球ができる。喜んでおふくろに話したら「行くな。行ったら兵役に取られて、帰ってこられない」と猛反対された。今でもあるでしょ、韓国には兵役が。兄にも反対されましたが、説得しましたよ。とにかく野球がやりたかったんです。 韓国各地を回りました。15試合くらいやって14勝して1つの引き分けかな。一度も負けなかった。ちょっと忘れたけど本塁打賞、優秀選手賞などほとんどの打撃賞は獲(と)ったかな。韓国野球の技術はまだノンプロ(職業選手ではない)に毛が生えたようなレベルだったけど、どこに行っても満員で熱気があった。野球ができるという喜びをこんなに感じたことはなかった。 《民族意識の芽生え…》 韓国ではそれまで生きてきて初めての感情も生まれました。空港に降り立ったときです。飛行機のタラップを下りたら、全然見ず知らずの韓国の役員さんが、私たちを引率していた役員さんと抱き合ってわんわんと涙を流している。初対面で。何か雰囲気が違う、初めてですよ、こんな感情は…。そこで思ったんです、これが祖国なのか、おじいちゃん、おばあちゃんが、おふくろ、おやじが生まれた国なのか。それを見ていて何か胸が熱くなった。初めて同胞民族という意識を持ったんです。 それで休みの日に4時間くらいかけてソウルから釜山に行き、そこからバスを乗り継いで祖父母に会いに行きました。田舎ですわな。おじいちゃん、おばあちゃんはまだ健在で、2人とも90歳を超えていた。祖父母には息子2人しかいない。2人とも日本に働きに出ていた。親はたまったもんじゃないよね。それで私が行ったら、孫だからそれはもうなでて抱きつくわ、もうええかげんにしてくれって思ったくらいだけど、本当に喜んでくれた。いろんな話をして。言葉は分からないけど、何とか日本語で話したりして一睡もせず、一夜を過ごしました。血のつながり、同胞意識をさらに感じさせるできごとでした。 《原点である母の教えが》
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