松任谷正隆「海外を知らずに一生を終える」と思っていた矢先、パリへ行くことに。そこで見かけた埃だらけのポルシェがなぜか気になり…「運命なんてそんなもの」
日本自動車工業会の発表によれば、2023年(1~6月)の四輪車の国内生産台数は前年同期比19%増となり、上期としては2年ぶりに増加したそうです。一方、無類のクルマ好きとして知られるのが音楽プロデューサー・松任谷正隆さん。自身とクルマの深い関わりについては、JAF(日本自動車連盟)機関誌『JAF Mate』の連載などに記していらっしゃいます。その連載がまとまった『車のある風景』より、苦手だった飛行機と初の海外旅行、そしてパリで出会ったポルシェの思い出についてつづったエッセーをお届けします。 【書影】松任谷さん愛する「車」にまつわる珠玉のエッセイ『車のある風景』 * * * * * * * ◆二度と飛行機には乗るまいと 僕は小学校のときに家族旅行で乗った初めての飛行機でちょっとしたトラウマになり、海外旅行デビューは30歳のときだった。 トラウマ事件……それは九州からの帰り、台風の影響で鉄道の橋が水に浸(つ)かったとかで列車が動かず、急遽(きゅうきょ)飛行機にキャンセル待ちで乗ることになったときのことだ。 当然のことながら列車の人たちは飛行機に殺到し、僕たち家族はバラバラの席。僕は老人の会みたいなグループの中にポツンと座らされた。 YS11は飛び立つと、台風の余波でゆらゆらと揺れ、僕の隣の老婦人が例の紙袋を取りだした。すると、周りの会の人たちは連鎖なのか、みんな袋を取り出し唸(うな)り始めたのだった。 地獄だった。 僕の隣の老婦人はよほど苦しかったのだろう、小学生の僕に「ぼうや、お願いだから運転手さんに言って止めてもらってちょうだい」と袋に顔を埋めながら懇願した。 いくら小学生でも上空で飛行機を止めたらどうなるかくらい想像ができる。頭の中はパニックになり、二度と飛行機には乗るまい、とそのとき心に誓ったのだった。
◆パリだ。憧れのパリだ それから20年あまり、海外というものを知らずに一生を終えるのか、などと思っていた矢先に、2か月のパリでの仕事が入った。しかも音楽ではなく、なぜだか役者の仕事だという。 それが非現実に映ったせいなのか、僕は上の空で「やります」と答えていた。今だから正直に言うが、仕事自体には何の興味も無かった。ただ、海外に行く最後のチャンスだ、と思ったのだ。 旅立つその日までは本当に気が重かった。当日などは、成田に行くクルマが事故を起こし、行けなくなったらいいのに、なんてずっと考えていた。 残念ながらクルマは予定通りに到着し、僕は夢遊病者みたいな感じでふらふらと撮影隊一行のグループに近づいていった。 飛行機は乗ってしまえばなんてことはない。ジャンボということもあって至極快適、袋を取り出す人なんてひとりもいやしない。 CAの前の広いスペースで僕は小学生みたいにはしゃいでいた。それが最高潮に達したのは、機内の「ただいま、ドーバー海峡上空を飛行しております……」というアナウンスがあったとき。 いやあ、ついに僕は浦島太郎状態を脱出したぞ、という感動に包まれていた。数十分後、飛行機は高度を下げ、早朝の深い霧の中を降りていく。ふと霧の隙間から空港そばの小道を行く、黄色いヘッドライトのクルマが数台見えたときには本当に泣きそうになった。 パリだ。憧れのパリだ。この決断をして本当に良かった、と。
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