「ワイドショー 現場取材主義の終焉」リポーターを辞めた大村正樹が語る
取材現場に行った人間が「温度」を伝える時代は終わった
―けれど、取材はつらいことが多い。 大村さん: ほかの記者さんもそうでしょうが、相手の嫌がるような質問も、本心や真相をあぶり出すため、あえてしなければならないこともありますし、それがもとで世間からまるで悪人のように非難されることもあります。よくそんなことできるよね、とあからさまにさげすまれることも。それでも続けるのは、自分なりの流儀があって、いまここで見聞きしたことを伝えるんだという熱意。賛否があってもいい、そこで自分が感じたことを、視聴者に感じ取ってもらいたいという思いがあるからです。それがすべてではないでしょうか。 しかし、最近の変化なのですが、視聴者がリポーターの取材した内容を聞きたいとは思わなくなった。その傾向が顕著です。現場で取材したことなんて、もういいよという受け止め方をする人が増えた。これはもしかするとワイドショーが招いた負の要因かもしれません。だから、もう、そういう需要はないんです。現場に行った人間が、温度を伝えるという時代は終わった。つまり、ぼく自身が終わったんだ、と。もしかするとぼくは求められていないんじゃないかと、苦悩したこともありました。
芸能人がニュースを仕切り、世論が作られる
―ワイドショーは以前とどう変わりましたか。 大村さん: これは、この10年でぼくたちも想像しない領域に変化しています。たとえば、芸能界の人たちは「静謐の箱」にいる人たちでした。彼らの何かを見たい、その欲求がワイドショーの文化の原点だと思います。絶対にぼくら大衆のところへ降りてこない人たちのプライバシーを見る、そこを出せれば成立はしていた。ところが東日本大震災以降、SNSの普及とともに「静謐の箱」から芸能界のみなさんが飛び出してきた。ぼくたちが追う前に発信されるわけで、そこに大衆が求める「答え」がある。そうすると、ぼくらは必然的に“マスゴミ”になってしまうわけです。 また、ワイドショーの作り手は、過渡期にあって煩悶しながら、専門家ではなく、今度は芸能人をワイドショーの出演者として積極的に迎えるようになった。よって「静謐の箱」の方々がテレビで発信するようになり、実はこれ、SNS以上に発信力が強い。ましてや芸能人のみなさんは表現が上手だし、影響力も強い。そこに大衆が求める「答え」があるわけですから、その方が「答え」を出してしまったら、取材者の存在はもはや必要とされません。いいか悪いかは別として、それが現実です。 ―芸能人がニュースを仕切り、世論が作られる時代が到来したわけですね。 大村さん: やはり影響力の強い、表現の上手な、発信力の強いタレントさんがズバッとものを言うことによって、状況が劇的に変わった。ワイドショーはかつて世論を形成する場所でもあったのですが、パフォーマンス能力が最大級の方たちが登場することによって、言論界も霞んでしまうだけの力を持ったのかもしれません。そこでの発言をネットが拡散しますから、大げさにいうと影響力は無限大になりますよね。また最近のテレビは、ネットで取り上げてもらうことを前提としているので、これまでのワイドショーとは次元が違います。 以前のワイドショーは、ボールを投げて、あとは視聴者が判断すればいいというもの。ところがいまは、放送中に強力な「答え」が出てくる。影響力の強い方の価値観、彼らの切り取り方で見え方が違ってくる。取材する側は「ほんとはそっちの方向じゃないんだよ」と言いたくても、流れによっては、かき消されます。それは制作者のジレンマですね。じゃあ何が正解かといえば、悩ましい。料理したネタが、スタジオで意外な形で進んでしまうのだけれど、視聴者はかえって脱線を楽しみ、盛り上がる。ああ見えてこの人は、こんな価値観でやっているんだ、と。それが大衆に受け入れられている、そんな時代です。 ―リポーターの役目はどう変わりましたか。 大村さん: ぼくは本当に恵まれたリポーターで、よくも悪くも、喜怒哀楽をスタジオに持ち帰ることができた最後の世代。テレビって、特に情報生番組というのは、喜怒哀楽にどこまで寄り添えるか、どこまで表現できるか、それに尽きます。リポーターが現場で感じた喜怒哀楽を、スタジオに戻って伝えてもいいというのびのびとした時代。それが10年前まではあったのですが、残念ながらいまはありません。なぜならば、リポーターがスタジオにネタを持ち帰る温度が封印されてしまって、ご意見番がその温度を判断するから。結局、スタジオにいる方の感情に左右されてしまう。現場の生々しいVTRよりも、スタジオの特徴的な意見がよろこばれるのかもしれません。