「自動車界の帝王」が残したマスターピースは、アメリカ車に新しいセオリーをもたらした|1941年式 キャデラック・シリーズ61
今を去ること80年も昔のクルマとは思えない、この美しいクーペ。後に「自動車デザイン界の帝王」の名をほしいままにした巨匠のマスターピースは、アメリカが世界の自動車業界におけるデザインリーダーであったことを、無言のうちに語っている。 【画像12枚】曲面ガラスのテクノロジーが未完成だったこの時代、少しでも空気抵抗を減少させるべく、ウインドシールドをV字型に二分割する事例が出現していた。20世紀初頭に登場した芸術様式「アール・デコ」の真骨頂ともいうべきダッシュパネル。メッキの使い方が実に秀逸である 【1941年式 キャデラック・シリーズ61】 世界に戦争の影が忍び寄ろうとしていた1939年から40年にかけて、北米ゼネラルモーターズ(GM)の最高級ブランド、キャデラックの各シリーズは、ラインナップの根本まで見直すフル・モデルチェンジを、暫時受けることになった。この時点で、長らくアメリカ最高級車の一端を担ってきたV型16気筒エンジン搭載の「シリーズ90」が、ついにラインナップから脱落。それまでのキャデラックではベーシック版に過ぎなかった、V型8気筒エンジン搭載モデルへと一本化されてゆく。 30年代半ばまでは、振動特性の面で圧倒的に有利なV型12気筒やV型16気筒エンジンが、アメリカ製高級車の象徴とされていた。ところが、30年代も後半となると、ゴムと油圧ダンパーも加えた有効なエンジンマウントが開発されたことから、むやみな多気筒化を図らずとも十分なスムーズネスを獲得できるようになってゆく。 それが、アメリカ車に新しいセオリーがもたらされた、最大の要因といわれている。 このV型8気筒エンジンは、346キュービックインチ(約5.7L)の排気量を持ち、弁形式は当時のアメリカ車では一般的だったサイドバルブ。初めてこのユニットを搭載した39年モデルでは135psだったが、40年以降は150psに増強されたという。 エンジンの一本化に反して、ボディには依然として多彩なバリエーションが与えられた エンジンの選択肢が一本化されたのに反して、当時からGMグループ傘下にあった2社のコーチビルダーがほぼ手づくりで架装するボディには、依然として実に多彩なバリエーションが与えられた。まず「フリートウッド」社は、シリーズ60セダンとシリーズ75リムジンからなるフォーマル系を担当。その傍ら「フィッシャー」社は、シリーズ61/シリーズ62/シリーズ63/シリーズ67など、2ドアクーペを含むスポーティでパーソナル色の強いボディを得意としていた。 中でも有名なのは、現代に至るセダンボディの定石、リアのトランクを独立させてプロポーションの一部とする「3BOX」スタイルのパイオニアとなった「シリーズ60」に違いない。しかしもう一つ忘れてはならないのが、21世紀の現代に至るクーペデザインの定石「ファストバック」を構築した「シリーズ61」クーペなのだ。 この時代のキャデラックで、今回の主役であるシリーズ61クーペをはじめとするフィッシャー製ボディの多くを手掛けたデザイナーは、第二次大戦前そして戦後の長期間にわたってGMデザイン部門をけん引。のちに「自動車デザインの帝王」とも呼ばれることになる名匠、ハリー・アールであった。 馬車製造業者の息子として生まれた「自動車デザインの帝王」 ロサンゼルス・ハリウッドの馬車製造業者の息子として生を受けたハリーは、若き日より類まれな才能とセンスを発揮。地元のコーチビルダーに請われ、デザイナーとして活躍していた。そして、26年からGMに参画。翌27年にGMが設立した、北米ビッグ3はもちろん世界の自動車メーカーでも初となるデザイン部門「アート&カラー・セクション」を、34歳の若さで任されることになった。 ハリーは、のちにキャデラック60シリーズを手掛け、最終的には自身の後継者となるビル・ミッチェルら若い才能を登用し、自身のチームを確立。しかし、当時の工業デザインを席巻していた「流線型」などの新しいムーブメントを安易に追いかけるのではなく、自身のデザインとパッケージングに巧みに取り込む才覚も見せていた。 例えばこのキャデラック61クーペにおいても、流線型スタイルから見事に昇華させたファストバックスタイルを提示することは、当時の自動車デザインにおける革命にも等しかった。第二次世界大戦後、イタリアのピニンファリーナが「チシタリア202」とともに構築したファストバック、今や全世界のFRスポーツクーペのプロポーションとして定石となっているスタイルにも大きな影響を与えたのだ。 アメリカが第二次世界大戦への本格的参戦を図ったことに伴って、民生用乗用車、ことにキャデラックなどの高級車の生産は一時中断となる。キャデラックの生産は戦後46年から再開されたが、47年モデルまではボディもメカニカルコンポーネンツも戦前型をキャリーオーバーしていた。 しかし、このシリーズ61クーペの美しさは、戦後の自動車デザインにも絶大な影響力を及ぼした。それは、この時代におけるキャデラックが、世界のデザインリーダーだったことを示すとともに、ハリー・アールという希代のスタイリストのあふれる才気を、最も如実に証明していたのである。
Nosweb 編集部