出世のために最高裁の顔色をうかがう…実は日本以外にはほとんどない裁判官の「ヒエラルキー的キャリアシステム」
司法権力の性格とその矛盾
さて、司法は、「国家権力の一部」でありながら、「ほかの権力をチェックする」役割をも期待されている。これは、実をいえば、きわめて深い矛盾を含む事柄である。権力の自己批判という側面があるからだ。したがって、それを可能にするためには、司法と裁判官の、ほかの権力からの可能な限りの独立を確保しておく必要がある。 しかし、司法が「権力チェック機構」としての役割を果たすと、ほかの権力は、手かせ足かせをはめられる場合が出てくる。これは、ほかの権力にとってはきわめて不都合で面倒な事態である。 だから、ほかの権力(広義の「権力システム」の構成者であり、政治・経済界等の各種圧力集団をも含む)は、さまざまな方法によって、司法を骨抜きにし、「権力補完機構」化したがる。そして、人々の法意識が十分に近代化されておらず法意識と近代法との間に大きな溝、ずれがある国、民主主義の成熟度の低い国、また民主主義の傾いている国ほど、そのような事態が起こりやすい。 さらに、司法は、行政や立法のように、現実的で強大な、リアルに目にみえるようなかたちでの権力も、もってはいない。一定の精神的「権威」はあっても、むき出しの「権力」には乏しいのが司法の特色である。 以上のような意味では、司法は、本質的な矛盾、弱さを抱えた権力であるといえよう。したがって、司法がその独立性を確保するためにほかの権力や世論と対峙してゆくのは、容易なことではない。裁判官に、十分な気概、ヴィジョン、自己認識が必要なのである。 だが、にもかかわらず、個々の事件については、裁判官の判断は絶対である。裁判官が原告勝訴といえば原告勝訴、無罪といえば無罪、さらに、考えてみれば恐ろしいことなのだが死刑といえば死刑なのであって、当事者がたとえ国であっても、三審級を一体としてみたときの裁判官の判断には、従うほかない。国家権力発動の直接的かつ最終的な局面としての司法の強さもまた否定できない、ということだ。 そして、以上のような司法・裁判官の弱さと強さは、同じコインの二つの側面、裏表なのである。 市民としては、これらの事柄をよく認識した上で、司法、裁判官がその強さを適切に発揮し、権力チェック機構、社会的価値創出・人権実現機構としての役割を果たしうるよう、バックアップと監視の双方を行ってゆく必要があるのだ。