韓日台「ハンセン人権運動20年」…「徴用・慰安婦問題に解決の糸口示せれば」
「ハンセン病患者の子であるという理由で養護施設生活を送り、実の両親の養子として生きることになったことが、今でも悔しくて恨めしいです。私たちは教育の機会と職業を得る権利を奪われ、社会の構成員としての役割がきちんと果たせませんでした」(韓国のハンセン病患者2世のKさん) 「私は日本のハンセン病患者家族訴訟の原告190番です。名乗らず番号でしか自己紹介できないのは、今まで差別と偏見の中で生きてきたことを意味します。ハンセン病患者の子であるとの理由で、私は生まれた時から人権がありませんでした。人権を奪われ、無念のうちに亡くなった方々、今まで静かに隠れて暮らし続けている家族のために、私たちは動き続けなければならないと思います」(匿名の日本のハンセン病患者2世) 「韓国、日本、台湾三国ハンセン人権連帯国際シンポジウム」が開催された14日、ソウル中区(チュング)のプレスセンターの記者会見会場のあちこちからすすり泣く声が漏れた。言葉は異なるものの、同じ痛みを共有するハンセン病患者2世たちが、互いの話を聞きながら流した「共感の涙」だった。韓国、日本、台湾のハンセン人権弁護団とハンセン総連合会が主催した今回のシンポジウムには、三国の弁護団とハンセン病患者の家族が一堂に会した。ハンセン人権弁護団の活動20周年を記念して開かれた今回のシンポジウムで、参加者たちは三国が経験してきたハンセン人権運動の歴史を振り返り、限界を探った。 ハンセン人権運動は、2001年に熊本地方裁判所が国家賠償請求訴訟で日本のハンセン病患者の勝訴判決を下したことで開始された。日本の弁護団は2003年、日帝強占期に全羅南道高興郡鹿洞(コフングン・ノクトン)の小鹿島(ソロクト)に強制隔離された韓国のハンセン病患者のために日本の厚生労働省を相手取って訴訟を起こした際に、民主社会のための弁護士会(民弁)の光州(クァンジュ)・全羅南道支部と大韓弁護士協会(弁協)とつながりを持った。似たような被害を受けた台湾の楽生院のハンセン患者の訴訟も続き、3カ国の人権弁護団が結成された。 2004年にはじまった人権弁護団の活動は20年間絶えることなく続いている。日本政府を相手取った国家賠償訴訟で、2005年10月に韓国は敗訴し台湾は勝訴したが、2006年に日本がハンセン病補償法を改正し、韓国の被害者も補償が受けられるようになった。その後、解放後も小鹿島にハンセン病患者を隔離し、強制断種手術などを続けてきた韓国政府を相手取った国家賠償請求訴訟も行われ、小鹿島の538人のハンセン病患者の原告の被害が認められた。 現在はハンセン病患者の家族の被害に対する補償を求める訴訟が行われている。日本のハンセン病患者の家族は2019年に日本政府を相手取って訴訟を起こし、勝訴している。韓国では2021年にハンセン家族補償請求弁護団が結成され、現在までに74人のハンセン病患者の家族の訴えが認められている。このような成果は、三国の活動家たちが共に勝ち取ったものだ。 2004年に人権弁護団活動を立ち上げ、今日まで主導してきた徳田靖之弁護士も、この日のシンポジウムに出席した。徳田弁護士は「日本政府の過去の過ちを日本国民の一人として謝罪した。そのことによって弁護団は互いに長きにわたって連帯し、尊重し合うことができた」とし、「このような連帯はハンセン病患者の被害の回復問題にとどまらず、韓日間に横たわる日帝による徴用や慰安婦の問題も、協力を通して解消の糸口を示せるのではないかと思う。私たちの活動がそのような役割を果たせれば」と述べた。 チャン・ヒョヌン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )