[麻布競馬場]ブランド服を捨ててユニクロを買ったらタワマン文学が生まれた話
僕は「LifeWear」以上のことを期待するのをやめた
ファーストリテイリングが「LifeWear」という概念を提唱していたことを僕はのちに知ることになる。「服は人の個性や魅力を惹き出すためのいわば『部品』だと思うのです」という挑発的なステートメントを読んだとき、ああ、これは僕のための服で、ユニクロは僕のためのブランドだと思った。 そうして、僕はすぐさま「エアリズムコットンオーバーサイズTシャツ」を5枚買い足した。その勢いで、アウターやパンツもすべてユニクロのものを買った。これまで着ていた服と比べれば値段は半分どころじゃなかったし、以前の格好のほうが「港区で人並みに稼いでいる若手サラリーマン」にはふさわしかったかもしれないが、僕はもう、「LifeWear」以上のことを服に期待するのをやめたのだから、それでよかった。 そうして春から夏、そして秋を越したあたりで、僕はウォークインクローゼットの中にあったユニクロ以外の服を全部メルカリに出して処分してしまった。ユニクロだけで過ごす、というこれまでは考えられない実証実験の結果、何ら不都合が起きないことが確認できたからだ。 「LifeWear」とは部品であって、部品はそれ単体では何も語らない。これまでは雄弁に語る服ばかり好んで着ていたから、僕は何も語らずに済んだが、これからは違う。部品を纏(まと)った僕自身が、僕自身が何であるかを語らなければならない。 もしかすると、2021年からインターネットで「タワマン文学」と呼ばれる、港区で人並みに稼いでいる若手サラリーマンばかりを主人公とした小説を書き始めたのは、ユニクロだけを着るようになったということが大きな原因だったのかもしれない。 こうして、僕はユニクロのおかげで、人生における服装という領域においてある種の呪いを解くことができた。その大革命の余波はその他の領域にも多分に及び、会社員をやりながら小説家になったり、自分には不向きだと悟って婚約を解消したりと、「きちんとした」人生らしきものを僕は次々と放り出せるようになった。 もちろん、過剰な思い切りの先にあるのは破滅だろう。アレッシィもスガハラも、手作りのパンもクッキーもない、ただただ効率的なだけの人生は味気ないに決まっている。何を残して何を捨てるか、それが問題だ。少なくともユニクロは、「君は服に何を望むか?」という素晴らしい問いを僕たちに突きつけてくれる。まずはその問いに対して真摯に向き合ってみて、その後も仮説立案と検証を繰り返しては改善を少しずつ積み上げてゆく、いわばアジャイル型で人生の最適な形を模索してゆくというのがいいんじゃないだろうか? だから、僕は取材なんかで「人生に悩む社会人に一言」みたいな質問を受けたとき、決まってこう答えるようにしている。 「まずは、クローゼットの中身を全部ユニクロにしてください」
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