[麻布競馬場]ブランド服を捨ててユニクロを買ったらタワマン文学が生まれた話
2010年の春、慶応義塾大学への進学を機に上京した僕は、決して丁寧とは言えない暮らしを送っていた。むしろ、実家の反動とでも言うように、深夜のツタヤで借りてきた100円の旧作を鑑賞しながら、ベッドに寝転がってポテトチップスを貪(むさぼ)った。もちろん、僕は1Kの狭苦しい部屋をアレッシィやスガハラで飾ることも、パンやクッキーを焼くこともしなかった。 ただ、服だけはちゃんとしたものを着ていた。 「きちんとした服装で損することはないからね」 自分で服を買い、その中から今日着るべきものを自分で選ぶようになってからというもの、その言葉を以前よりも強く意識してしまうようになっていた。ベッドでポテチを食べることは密室の中の自由だが、ひとたび家を出れば無数の人がいて、時には彼らから無遠慮に値踏みされることもある。そうだ、母の言うとおりだったのだ。せっかく田舎から出てきて、名門大学に入学することができたのだから、服装の失敗ごときで僕の価値を低く見積もられてしまっては困る……。 季節が変わるたび、僕は東横線に乗って渋谷に出向き、BEAMSやSHIPS、BEAUTY&YOUTHあたりをぐるぐる回っては、大学生らしいカジュアルな、それでいていざブランドタグを見られても恥ずかしくない服を買い集めるようになった。社会人になると、オーダーメードのスーツやワイシャツが新たに加わった。もちろん、日頃からトレンドの研究も怠らない。街に出ても、周囲の目線ばかりが気になる。 つまり、「オシャレだね」と褒められたり、ストリートスナップに映ったりしたいわけではなく、損をしたくなかっただけなのだ。「ダサいね」と言われなくて、かつ学歴や年収にふさわしくないと言われない服装さえできていれば、それでよかった。 「きちんとした服装で損することはないからね」 そして、ここにおける「服装」はきっと、他の言葉にも置き換え可能だろう。学歴、勤務先、住所、資産、結婚……。外から見えるあらゆる人生の選択を「きちんとした」ものにしなければならないという強迫観念に、僕はいつしか囚(とら)われてしまっていたのだ。 ●エアリズムコットンオーバーサイズTシャツの衝撃 風向きが変わったのは、コロナ禍が始まった2020年の春だ。出社はもちろんのこと、飲み会やデートといった外出の機会がすっかり失われて、僕はほとんどすべての時間を自宅マンションに引きこもって過ごすようになった。 せめて快適な部屋着でも買おうと、僕はユニクロのECサイトを開いた。それまでも下着やパジャマくらいはユニクロで買っていたから、僕とユニクロはまったく無関係だったわけではない。ただ、少なくとも僕にとって、自宅でくつろいでいるときか、せいぜいコンビニに行くとき以外でユニクロの服を着ているということは「きちんとした服装で損することはないからね」の精神にまったく反する行為だった。社会全体に目をやっても、特に大学在学時はまだ「ユニバレ」「ユニ被り」なんていう言葉もあったくらいだし、程度の差はあれど、僕と似たような感覚を持っている人はそれなりにいたはずだ。 だが、そこで僕はとある製品と運命的な出会いを果たすことになる。その年の春夏シーズンから投入された「エアリズムコットンオーバーサイズTシャツ」だ。最初は部屋着かパジャマのつもりで2、3着買ったそれを、いざ着てみると……。思わず声が出るほど驚いた。 僕が事前に想像していたユニクロらしさといえば、速乾にストレッチといった快適な着心地と、あとは価格の安さくらいなものだった。しかし、厚みとハリのある生地をはやりのオーバーサイズに仕立てたそれは、「外に着ていけるTシャツに必要なもの」をすべて過不足なく備えた、僕にとってはユニクロらしからぬ一着だったのだ。 雷に打たれたような経験だった。「そうだ、僕が本当に求めていた服はこれだったのだ」と、そのとき確信した。もちろん、当時1500円(税抜き)で売られていたこのTシャツよりも「きちんとした」ように見えるものは、10倍くらいの予算を用意して、丸の内あたりのセレクトショップを見て回ればいくらでも見つかるだろう。 しかし、僕は本音のところでは、服にそこまでのことを求めていなかったのだ。単純に服が好きだから、という理由で何十万もする服を喜々として買う人たちを「積極的服好き」と呼ぶとすれば、僕のそれは明らかに「消極的服好き」だった。ファッションを通じて実現したい自分も、発信したいメッセージもないままに、僕は半ば義務感のような形で、欲しくもない服を延々と買っていた。そうである以上、僕はもうこれでいいのだ。僕が必要とする機能性に経済性、そしてデザイン性のバランスは、ユニクロのこの新作でまったく完全に満たされてしまった。