88歳の戦没者遺児が、人生の最期に「パソコンを学ぼうとした理由」
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
三浦さんがパソコン教室に通ったわけ
三浦さんの急逝は2021年3月。近所に住む旧知の人が電話で僕に教えてくれた。カーテンが閉じられたままで、明かりもつかない日が続いたため、異変に気付いたという。三浦さんは100歳を超えても元気いっぱいだろう、と思っていた僕は、このタイミングで二度と会えなくなるとはまったく予期していなかった。東京勤務を終えて北海道に帰れば「三浦孝治伝」を記すために再び、三浦さん宅に通おうと考えていた。とことん悲しみに暮れた。葬儀日程を教えてもらい、日帰りで恵庭に向かった。 葬儀会場に行く前、僕に訃報を伝えてくれた近所の男性宅にお礼に行った。その際、男性からこんな話を聞いた。「ずっと元気そうだったんですよ。最近は、パソコン教室にも通い始めたりして」。 「ああ」と僕は声を上げ、そして目に涙がにじんだ。 88歳の三浦さんが、パソコンを学ぼうとした理由は分からない。思い出したのは、最後に会った3ヵ月前の、三浦さんの残念そうな表情だ。三浦さんは、僕がツイッターで発信し続けている硫黄島に関する短文を読みたいと望み、僕は三浦さんの古いパソコンでは無理だと突き放してしまった。それでも読みたいと思ったことが、もしかしたらパソコン教室に通い始めた理由の一つかもしれない。 男性宅を出て、隣接する三浦さん宅の玄関先に立った。15年間、硫黄島の取材で数え切れないほど三浦さんと向き合った居間は、カーテンが閉じられたままだった。そして、そこで初めて涙がこぼれた。
遺族にお願いしたこと
葬儀の4日後、僕は三浦さんの遺族にメールを送った。メールアドレスなどの連絡先は、葬儀会場で名刺交換をした際に教えてもらっていた。 〈孝治様には何一つ恩返しができませんでした。せめてもの思いとして、戦争の惨禍と平和の尊さの教訓に満ちた硫黄島の探究と発信を今後もライフワークとして続ける決意です〉。メールではそうつづった上で、お願い事を記した。 三浦さんは自宅で、1995年から四半世紀にわたって参加してきた遺骨収集に関する書類を保管していた。三浦さんは生前、取材に行くたびに、その膨大な書類の中から必要な書類を即座に見せてくれた。その整理整頓ぶりに、いつも僕は驚かされていた。〈それらの資料を何かの機会に読ませて頂くことは可能でしょうか。今後の硫黄島関連の探究に活かさせて頂きたいというのが、率直な理由です〉と記した。 遺族は僕のお願いを快く受け入れてくれた。1週間後、大型サイズの段ボール箱二つ分の資料が届けられた。僕は6畳の自室に運び込んだ。押し入れに入れず、常に見えるようにした。三浦さんのことを忘れないようにしようと思った。 資料の中には、三浦さんが硫黄島で撮影した写真も多数あった。これは極めて貴重な資料と言えた。厚生労働省に開示請求し、公開された各年度の遺骨収集報告書には現地で撮影された写真がほとんど含まれていなかった。 近年の遺骨収集は、現場活動中のカメラの所持は禁止されていた。それは防衛上の理由と、遺族感情への配慮のためだと厚労省側からは説明された。こうした撮影禁止規則ができる前に撮影された「三浦写真」は、僕にとって1990年代の遺骨収集がどのように行われていたかを知る「一級の資料」と言えた。 段ボールの中からは、新聞のスクラップ帳が出てきた。僕は何冊もある写真アルバムに夢中になり、スクラップ帳を開くのを後回しにしていた。ほぼ総ての資料に目を通し終えた僕は、スクラップ帳があったことを思いだし、表紙を開いた。 「硫黄島滑走路下 初の遺骨 2柱発見 道内遺族 進展に期待」「身元不明の戦没者納骨 道内遺族も参列 千鳥ヶ淵で拝礼式」「硫黄島滑走路下 新たな遺骨 2柱 道内遺族『朗報だ』」……。貼られていたのは、僕が北海道を離れ、東京支社報道センターに配属されてから発信した記事だった。どれもこれも。どの記事も、大切に扱うように、垂直にまっすぐに切り抜かれていた。 「さかいさーん、上京した後もずっと応援していましたよ。これからもずっと応援していますよ」 スクラップ帳から、三浦さんのそんな声が聞こえた気がした。 僕はしばらくスクラップ帳を閉じられなかった。 そして、僕は決意したのだ。 三浦さんが心に刻んだ父の「アトハタノム」の手旗信号を、次は僕が引き継ぐのだと。 硫黄島の土を掘る僕の理由は、また一つ増えたのだった。
酒井 聡平(北海道新聞記者)