「武士は喰わねど高楊枝」はなぜ誤解なのか?渋沢栄一が諭す「仁の徳」と「財産」を両立させる方法
このように言うと、商工業者のすべてはみな信頼できない背徳者のように聞こえるかもしれない。しかし孟子が「人間の本性は善なのだ」と主張したように、人には善悪の心がともに備わっている。 なかには立派な人間もいて、商工業者の道徳の退廃を嘆き、これを救おうと努力している者も少なくない。とは言うものの、何せ数百年来の習慣が染みつき、利益追求の学問によって悪知恵ばかり発達している者を一朝一夕に立派な人間にするというのは、そう簡単にかなえられるものではない。 ただし、だからといってそのまま放任して事態の改善を望んでも、根のない枝に葉を繁らし、幹のない樹木に花を咲かそうとするようになってしまう。国の根本を培ったり、商業の権利拡張などとうてい望めなくなってしまうのだ。 そこで、商業道徳の核心部分であり、国家においても、世界においても直接的に大きな影響のある「信用」の威力を宣伝していかなければならない。日本の商業に携わる者すべてに、「信用こそすべてのもと。わずか一つの信用も、その力はすべてに匹敵する」ということを理解させ、経済界の基盤を固めていくことこそ、最も急いで取り組まなければならない事柄なのだ。 こんな誤解がある。もともと競争は、何事にも付きものだ。その最も激しいものを挙げれば、競馬とかボートレースとかになるだろう。 他にも、朝起きるのにも競争があり、読書するにも競争があり、徳の高い人が低い人から尊敬されるのにも競争がある。しかし、こちらの方の競争は、あまり激しいものはない。一方で、競馬やボートレースとなると、命をかけても構わないというほど熱狂的になる。自分の財産を増やすというのもこれと同じで、激しい競争の気持ちを引き起こし、「あいつより、俺の方が財産を多く持ちたい」と願うようになる。 それが極端になると、人として踏むべき正しい道筋という考え方も忘れてしまい、いわゆる「目的のために手段を選ばない」というようにもなる。つまり同僚をだまし、他人を傷つけ、あるいは自分自身を腐らせてしまう。 昔の言葉に、「財産をつくれば、仁の徳から背いてしまう」(26) とあるが、結局そういうところからきた言葉なのだろう。 アリストテレスは、「すべての商売は罪悪なのだ」と言ったそうだが、それはまだ文明の開けぬ時代のことであり、いかに大哲学者の言葉だとは言っても、真面目に受け取るわけにはいかない。 しかし孟子も、「財産をつくれば、仁の徳から背いてしまう。仁の徳を行えば、財産はできない」(27) と言っているくらいだから、同じようによく味わうべきなのだろう。 (26)『孟子』滕文公章句上49 富を為せば仁ならず。 (27)『孟子』滕文公章句上49 富を為せば仁ならず。仁を為せば富まず。