いじめっ子を押入れにいる、形も声もない影「ナイナイ」に会わせたら…書評家が春にオススメする7冊(レビュー)
書評家の大矢博子が、春にオススメする心を温めてくれるエンターテインメント作品を紹介する。 *** 年明けから辛いできごとや悲しいニュースが続いた令和6年の幕開け。現実が辛いときこそフィクションの出番だと私は思う。現実とはまったく違う方向にしばし心を遊ばせて息を抜くのは、メンタルのバランスをとるのにも一役買うはずだ。 ということで今回は、とことん現実から乖離した、エンタメに振り切った小説を紹介しよう。 まずは森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)。ワトソン医師は悩んでいた。ホームズが大スランプに陥ってしまい、まったく仕事をしないのだ。そんなとき、ホームズの自宅兼事務所の向かいでなんとアイリーン・アドラーが探偵事務所を開いた。依頼人はそちらに流れ、ホームズはさらに落ち込む。どうにかホームズを引っ張り出したいワトソンはスランプの原因を探ろうとするが──。 つまりはホームズもののパスティーシュで、モリアーティ教授やハドソン夫人、レストレード警部らお馴染みの面々も登場する。が、お馴染みじゃないのは舞台の方。ワトソンは下鴨本通で辻馬車に乗り、鴨川沿いから祇園の街を眺めながらホームズの下宿、寺町通221Bへ向かう──え? 読みながら私の中の富澤たけしが「ちょっと何言ってるかわからない」と何度も声を上げたぞ。舞台は「ヴィクトリア朝京都」、十九世紀後半の京都にホームズの登場人物たちが揃っているのである。なんと素っ頓狂な! だがこれが楽しい。いつしか明治の京都の街をホームズが、ワトソンが、アドラーが闊歩している様子が浮かんでくる。正典のネタがそこかしこにちりばめられ、しかも著者のアーサー・コナン・ドイルが傾倒した心霊主義まで物語に取り込んで、いやこれはファンにはたまらない──が。そこで終わるモリミーではない。事態は思いがけない方向に進み、後半は「あれがそこにつながるのか!」という驚きの連続だ。メタフィクショナルな趣向が読者を翻弄し、小説とは何かというところまで考えさせてくれるのである。いやあ、すごいものを読んだ。