【証言】「日本人はみんな一文無しに」旧満州での貧しい生活…山田洋次監督 戦争の原体験1
日テレNEWS
8月15日の終戦の日を前に、「男はつらいよ」など数々の名作映画を手がけた山田洋次監督が、旧満州から引き揚げた時の体験を語りました。当時の日本人にあった差別意識や、終戦後の貧しい生活、旧ソ連兵に略奪を受けたことなど、後世に残すため証言しています。
■「恥ずかしいけど差別はあった」旧満州で日本人は…
1933年。当時2歳の山田監督が家族と共に移り住んだのは、中国東北部に日本が主導して建国した旧満州。 父親は南満州鉄道の技術者で、転勤は多かったものの、不自由なく、豊かな暮らしをしていたといいます。 ――太平洋戦争中、山田監督や旧満州にいた日本人の生活について 山田監督 「全く今の日本人には想像できないかもしれませんね。僕たち旧満州にいる日本人というのは、まるで自分の国のように思ってたからね。形の上では一応独立国なんですよ。満州国と言ってね。 そんなことは僕はあんまり考えたことなかった。 もちろんパスポートも何もあったもんじゃない。 簡単に日本人は出入りできたしね」 「大体は威張ってたね日本人は。中国人はみんな貧しくて。例えば大連にしても、奉天にしても、新京にしても、街を歩く人は服装だけで区別がついた」 「貧しい服を着てるのは中国人だった。 綺麗なスーツを着たり、着物を着たりしてるのは日本人だった。馬車や人力車が走ってるけど、馬車の御者は中国人だし、人力車を引く人はみんな中国人だし、乗ってるのは日本人。 そういう風に、支配・被支配っていうのがはっきりしてたんです」 「心が痛むんだけど、人種差別というのは、はっきりありましたね、日本人には。とっても恥ずかしい話だけどね。 それが、あの時代の満州ですね。小っちゃい時からそういうものだと思っていたんだけども。でも時々『あれ? そんな事でいいのかな?』っていう思いは少年の僕には全くないわけじゃないね」 「例えば、知り合いのおじさんと一緒に馬車に乗って、料金の問題でもめて、いきなり御者をぴしゃりと殴っちゃうみたいな。日本人は当たり前だったんですね、それが。だけど子供心に『ああ、かわいそう』『あんなことしなくてもいいのに』という。 そのおじさんは、決してその僕たちに対して暴力的な人でも何でもない。面白いおじさんなんだよ。 それが突然、中国人に対すると、威圧的な態度をのぞむっていうのは、『なんか変だな。 良くないな』って気持ちはあったねって子供心にね」