【訃報】アルト開発秘話も 軽自動車の発展に尽力 スズキ・鈴木 修元会長(94)の生涯 世界的企業に成長させ政財界にも影響力持つ
Daiichi-TV(静岡第一テレビ)
自動車業界のカリスマ経営者と呼ばれたスズキ元会長(現・相談役)の鈴木修元会長。 スズキを40年間指揮し、売上高を10倍に押し上げスズキを世界的に企業に成長させただけでなく、政財界にも大きな影響を与えました。その生涯を振り返ります。 1909年に織機メーカーとしてスタートしたスズキ。二輪車や四輪車の製造を手掛け躍進を続けてきました。 鈴木修氏が社長に就任したのは1978年、48歳の時でした。 そして社長就任4年目の1982年に、自らインド政府と交渉し、他社に先駆けてインド進出を実現し、今やインドでの新車販売台数のシェアは驚異の40.3%。スズキの売上高を10倍に押し上げ、3兆円を超える世界的な企業に成長させました。 (鈴木修社長・当時) 「(日本は)陸地が小さくて人口が多くて資源がない貧乏国ですからね。何で勝負するかというと、知恵で勝負するしかないんですよね」 その知恵を絞って躍進につなげた車が… 社長就任後に開発を主導した鈴木修さんの熱意と技術者の努力によって生み出された、初代「アルト」です。 (鈴木修会長・当時) 「(当時、軽自動車は)65万円の小売価格だった。それをダメだと私は言って、35万円で原価をはじき出せと言った。技術者に部品だけ安くしてもダメだと(言われ)、頭にきましてね…僕は言ったんです。エンジン取ったらどうだと」 当時は軽自動車の規制が強化され、売れ行きが落ち込んでいた時代。徹底的なコスト削減を指示し、格安で実用的な車づくりに取り組みました。 (鈴木修会長・当時) 「『小少軽短美』と言って、部品は小さく、短く、軽く、美しいデザインにしようと」 そして、47万円という破格の値段で売り出すと、目標を大きく上回る月1万台を売り上げる大ヒットとなりました。 そして3年前、91歳のときに会長職を退任。40年以上務めたトップの座を長男の俊宏社長に譲り、自らは相談役に就任しました。 一方、鈴木修さんは、政財界にも大きな影響力がありました。 鈴木康友前浜松市長の擁立にかかわり、当選すると自ら訴えてきた行財政改革や行政区再編の実現を後押しました。 その影響力は県政にも… (鈴木修会長・当時と川勝知事・当時) 「川勝さん!がんばって」「修先生」「声が大きいからセーブして」「きょうは本当に素晴らしい応援演説いただきまして」「またいつでも応援に行きますか ら」 4期15年務めた川勝前知事を長年支援しました。 そして、ことし5月の知事選では、鈴木知事の街頭演説会場に応援に駆け付けました。年々言葉を発するのが難しくなり、取材に対しては、筆談で鈴木知事にエールを送りました。 また、県政課題、リニア新幹線については「反対」の意思を示し、県が浜松市に建設を予定している新野球場については、早い実現を目指して要望活動を行うなど、その動きや発言は常に注目を集めてきました。