「ええ声ぇぇ~」の礎は人との出会い ── お気楽ゴン太の声・ナレーター畑中ふうの生き方
広告代理店へ就職、競輪・競馬の場内実況など担当
そんな中での就職活動。一般企業を受けるなどしたが、あまり行く気がなく、親に言われて地元の役所も受験したが不合格。「もう留年するんかな」と思った時、遠縁にテレビ制作プロダクションの取締役がおり、そこでアルバイトすることに。「ドラマの『部長刑事』でケーブル片付ける仕事とかやって、業界を垣間見た。けど、ほんま最後まで就職が決まらんかってん」 だが、大学の放送部OBが京都の放送局に勤めており、その縁で大阪の小さな広告代理店を紹介された。競輪・競艇・地方競馬の実況と広告魚無を行う会社が「実況できる営業」を探していた。そして卒業ほぼ1か月前に面接に行き、採用された。 就職先では、入った月は電話番と研修の日々。1か月がたち、びわこ競輪などの現場に出るようになる。やがて、向日町・岸和田といった競輪で場内実況や次回レース予告などを担当。中継番組にも携わった。「競輪を4戦くらいしゃべって、そのあとは競艇。けどな、刺激少なくて、先輩からも次を考えとけって言われてな」。そうした思いから4年でこの仕事を退職した。
お笑い番組出演、上沼恵美子に「変わった方ですね」
退職時は27歳。特になにをやるということもなく、なにかをしなくてはと考えた時、ふと「タモリっておもろいなあ」と頭に浮かんだ。「弟子になりたい」。そう思い東京へ出てタモリを探した。そして、家を見つけたがそこで辞めた。「なにかをせな、というエネルギーだけやったんで、やっぱ特に弟子になりたいというわけでもなかった。前まで行って『すごい家やなぁ』と思って終わってしもたね」 その後、東京。下北沢に住み「なにかをしよう」と動き回った。下北沢駅前の書店で劇団の雑誌を見つけた。折りしもその時は「小劇団ブーム」。雑誌に載っていた有名な劇団は難しそうなので、気楽に入れそうなところを探し電話。「2か月後に公演あるから練習見に来て」と言われ訪ねた。劇団には若き日のB21スペシャルのちんなどが所属していたという。 そしていきなり役をもらった。「犬の役でセリフがなかったわ。いや『ワン』くらいは言うたかな? その後、お笑いのオーディションとかも受けたりして。蛍雪次朗さんとかも来てはった。六本木のコメディハウスにも出たけど、お客さんとの距離が近くでヤジ飛ばされて、シュンとしたのを覚えてますわ」 そんな時、地元・大阪の読売テレビが1分間コントをして面白かったら10万円もらえるという番組をやっていると聞き、即座に応募した。交通費も宿泊費もタダとあって、帰省がてらに出場。1回戦の相手は「ハイヒール」。ジャッキー下玉利の名で「交通事故実況ネタ」で挑むもあえなく撃沈。審査員の上沼恵美子には「ちょっと私にはわからんけど、変わった方ですね」と言われた。