絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#51
国立公文書館に所蔵される石垣島事件のファイル。元軍人の見解として書かれた嘆願書には、当時の日本軍の常識が書かれていた。死刑を宣告された41人のうち、ほとんどは命令を受けた実行者だった。「上官の命令は天皇の命令」。命令を受けた者は、意志を持たない「単なる道具」の状態だったという。米軍はその常識に納得できたのかー。 【写真で見る】石垣島事件 判決の記事(毎日新聞社)
石垣島事件に対する日本とアメリカの温度差
横浜裁判で最も多い被告数であった石垣島事件。米軍機の搭乗員3人の処刑に対し、46人が被告とされたが、初公判の日に毎日新聞が記事を掲載したとはいえ、いわゆる「ベタ記事」で、日本人の注目度はそう高くはなかった。 〈写真:石垣島事件 初公判の記事(新聞史料にみるBC級裁判・毎日新聞社)〉 「九大生体解剖事件」のように、医師が生体実験をしたというショッキングな要素や女性の被告がいる事件と比べれば、人数は多いとはいえ軍隊にいた人ばかりなので、トピックスになり得なかったのかもしれない。また、3人目の捕虜を縛って生きながら刺突訓練の的にしたという殺害方法が日本の軍隊では珍しくなかったのか、特に残酷だという認識ではなかったようだ。 〈写真:九大生体解剖事件の初公判(米国立公文書館所蔵)〉 しかし、米軍の認識は違っている。1947年11月26日の初公判の後、12月3日に被告人席では足りずに傍聴席までを埋める被告たちの姿を、全員が写るように4枚の写真に収め、それをアメリカの国立公文書館に収蔵したことを見れば、横浜裁判の中でも重要な裁判という位置付けだったと思われる。一人ずつ判決を宣告される写真は30数人分も残されている。
41人死刑は衝撃
さすがに、1948年3月16日の41人死刑判決は新聞で大きく扱われた。大佐から二等兵までことごとく絞首刑の判決が出て世間が驚き、関係者の間で嘆願書を出そうという動きが活発化したようだ。その中の1通が1948年12月に提出するつもりで書かれた元軍人の嘆願書だ。 〈写真:石垣島事件 判決の記事(新聞史料にみるBC級裁判・毎日新聞社)〉 三人目の捕虜を銃剣で突いたとして死刑の宣告を受けた兵の中には、まだ10代の者もいて、「命令の実行者」を罪に問うのは酷であるという主旨なのだろう。命令についての「日本の常識」が書かれている。 〈写真:マッカーサー元帥に提出された嘆願書の下書き(国立公文書館所蔵)〉