水俣病被害者支援の拠点「相思社」設立50年 激動の半世紀を乗り越え新しい世代へ
■元職員 高倉史朗さん 「川本さんと一緒に県庁に行って交渉して、大声上げてそのまま座り込んで泊まってしまう。県庁前に4か月テント張って座り込みましたから。相思社はそういう方々の運動のインフラを支えはしましたが、実は相思社がそういう方々に支えられてきたんだな、それが僕らの時代だったって思っています」
かつて相思社の理事長を務めた川本輝夫さんの長男・愛一郎さんが今、理事をしています。「これから苦しい道」。父が遺した言葉を、愛一郎さんは相思社の歩みに重ねます。 ■川本愛一郎さん 「今後も苦しい道だと思います。もうそれは苦しいと思いますけれど、その苦しみの中で必ず良かったと思える瞬間というのに出会いますので、それを期待しながら職員たちが頑張って頂ければと思います」
「患者」と患者ではない「市民」が激しく対立し、地域を分断した水俣病。しかしこの日、乾杯の挨拶を務めたのは、地元の自治会長でした。 Q相思社のこういう席で地元の自治会長が乾杯の音頭を取るのは時代が変わったなあと。 ■18区自治会長 川畑俊夫さん 「他にないんですよね。民間の人たちが相談に来て、親身になって相談にのってくれるっていうのはね。 そういう意味で存在価値が今後、ますます高まっていくのではないかと」
■相思社職員 永野三智さん 「相思社の50年の歴史は正直に言うと重い。重いですね。次の50年は水俣病をできるだけ 長生きさせる50年と思っている。水俣で起きたありのままを、例えば資料という形で次の世代に引き継ぐ、それこそバトン役が私たちなのではないかなと」
【スタジオ】 (緒方太郎キャスター) 取材した東島大記者です。相思社は普段はどういうことをしているのでしょうか。 (東島大記者) 水俣病の認定申請は、膨大な手続きを自分でやらなければなりませんから、その手伝いや、国や熊本県との交渉ごと、日常生活の介助など多岐にわたっています。乾杯をした自治会長の川端俊夫さんは、今年の慰霊式で祈りの言葉を述べた方です。分断された地域の絆というのは簡単には元に戻りません。水俣に「もやい直し」というキーワードが生まれて30年以上経ちますが、まだ道半ばです。しかし、こうやって着実に歩みは続いている、そう感じた相思社50年でした。