水俣病被害者支援の拠点「相思社」設立50年 激動の半世紀を乗り越え新しい世代へ
KKT熊本県民テレビ
今年5月、水俣病の慰霊式後に行われた患者団体と環境相との懇談会中、患者の発言が長いとマイクの音量が切られました。この時、患者の横にいたのは水俣病被害者を支える組織の職員です。その支援活動の拠点「水俣病センター相思社」が、設立から50年の節目を迎えました。この50年には思い継がれる歩みがありました。
■故 川本輝夫さん 「うちの親父は69で死んだ。69で。親父が死んだとき声を上げて泣いたよ。ひとりで精神病院の保護室で死んだぞ、保護室で。うちん親父は。牢獄のごたる部屋でだれもおらんところで死んだ。しみじみ泣いたよ俺は。保護室のある格子戸の中で、親父と二人で泣いたぞ。そげな苦しみがわかるか」
「水俣病センター相思社」の50年を記念したイベントで上映されたドキュメンタリー映画のワンシーン。チッソの社長に迫っていたのは、水俣病患者の川本輝夫さんです。今は亡き父の姿を、長男の愛一郎さんが見つめていました。
上映後、愛一郎さんは一通の電報を紹介しました。愛一郎さんが高校に合格した時、父の輝夫さんから届いた電報です。輝夫さんはこの頃、チッソ本社前での交渉を続け、1年以上家に帰っていませんでした。電報を送った場所はチッソ本社。 ■川本愛一郎さん 「『合格と15歳の誕生日おめでとう。今から苦しい道だ、がんばれ。チッソ本社内より 父』。闘っている最中にも家族のことを思っていたんだなと」
「苦しい道が始まる」という電報を受け取ったその年、相思社の建設が始まりました。支援団体「水俣病を告発する会」の機関紙には、完成を心待ちにしている様子がつづられています。
1974年、相思社が完成。約3000万円の費用はすべて全国からの寄付でまかなわれました。その後、経営を安定させるためにキノコや甘夏ミカンの栽培に乗り出します。こうした物販が今も相思社を支えています。 一方で「自分探し」の若者たちを惹きつける場所にもなりました。元職員の高倉史朗さんです。大学を卒業後、九州を旅行中に相思社を訪ね、「1週間ほど泊まらせて下さい」と頼んだのが始まりでした。以来、川本輝夫さんをはじめとする患者たちとの交流を深め、支援活動に邁進します。