建築から戦争を考える(上)戦争とは文化現象ではないのか
文化的超戦略
戦争というものは、大小さまざまな戦闘レベルで構成されている。 個人と個人の斬り合い撃ち合い、小隊の小競り合い、陸海軍の大きな部隊の衝突、空爆やミサイル攻撃、あるいは情報戦、撹乱戦、宣伝戦などであり、局地的な戦法が「戦術」であり、大局的な戦法が「戦略」であるが、「文化の戦争」という観点からは、リアルの戦略を超えた「超戦略」というものが想定される。 超戦略においては、リアルの戦争は局地戦であり、その勝敗よりも、高度の次元における文化力学の帰趨を考慮する必要がある。しかしまちがえてはいけない。超戦略は、その時点における自己の文化の拡大のみを目的とすることではない。文化とは、常に変化し成長する生命力をもった存在なのだ。 その時点における指導者が文化文明を左右するというのはむしろ傲慢な考えである。人間は文化文明の歴史的な流れを理解しその流れに身を委ねつつ行動の方向を探るべき存在なのだ。マルキシズムのあやまちは、文化の生命力を唯物弁証法という硬直した歴史観で組み敷こうとしたことであった。 超戦略において、リアルの戦争は互いに他の文化文明を破壊する競争であり、双方にとって大きな損失であるから、極力避けるべきものである。万一戦闘状況に陥った場合は、常に和睦に向かうことが前提である。 文化も文明も、異文化異文明の価値を認めることによって相互に発展する。相手のそれがこちらのそれよりも優れているなら、素直に取り入れるのが超戦略の要諦であり、こちらのそれが相手のそれより優れているなら、平和的な手段により、その事実を相手に認めさせることによって損害なく発展することが要諦である。 つまり超戦略においては、彼我の文化文明を知悉し、その価値を冷静に判断して行動することが肝要なのだ。 島国はその点において、長所と短所を有している。 外来の文化文明の価値をすなおに認め、すみやかに取り入れるところが長所であり、ともすれば外国の文化文明の実態を認識せず、夜郎自大に陥るところが短所である。 すなわち『孫子』にあるように、彼我の現実を「知る」ことから始まるのであるが、最近の若者は、海の向こうへの好奇心を失いつつあるように思える。 大海の荒波に揺れる一艘の小舟。 8月半ばの蝉の声は、あの懺悔と悔恨と鎮魂を蘇らせる。