建築から戦争を考える(上)戦争とは文化現象ではないのか
建築様式の観察から
建築様式の分類と分布の研究をしてきたが、その様式の拡大が、戦争の結果と深く関係していることを感じていた。 素朴な住居の様式は自然風土に従って分布しているのであるが、宗教建築や宮殿の様式など、高度に複雑化し形式化した特異な様式は、戦争で勝利することによって広がるのである。 例えば、カトリックの勢力が勝てばその地域にロマネスクやゴシックの様式が広がり、イスラム教の国が勝てばモスクの様式が広がり、仏教勢力が勝てば仏教寺院の様式が建ち並ぶ。そこで人間というものは「建築様式=文化様式」を拡大するために戦争するのではないかと考えた。 だが様式拡大には、戦争をともなわない場合もある。ギリシャ神殿の様式がローマ帝国に拡大したのは、ギリシャがローマに勝ったからではなく、逆にローマがギリシャを征服することによってであった。 ヨーロッパにキリスト教の様式が広がったのは、ヨーロッパ自体がローマ帝国の国教であったキリスト教を当時の文明として取り入れたからであり、日本に仏教様式(元は中国式)が広がったのも、日本自体がインドから中国や朝鮮に伝わっていた仏教を当時の文明として取り入れたからである。つまり文明化(普遍化)した文化の様式は、それ自体の力によって拡大するのだ。 「建築様式は文化様式を表す」という立場でものを書いてきた僕は、人間の集団は常に、文化様式の闘いを演じているのであって、リアルの戦争は、ある領域をみずからの文化様式に染めるための闘いの、特殊な様態ではないかと考えた。
戦争は大脳の技である
人間以外の動物は戦争しない。 サバンナの弱肉強食は生きるための本能であり、人間が他の動物を食べるのと同じであって、戦争とはまったく異なる。同種のあいだで大量に殺戮し合うのは人間だけで、これはきわめて人間的な行為なのだ。そして人間は大脳が爆発的に進化した動物であることから、戦争もまた大脳爆発によると考えるべきだろう。そして戦争は、その大脳の営為としての文化文明とともにあると考えるべきだろう。 爆発過程にある人間の大脳は、その働きとその効果を最大化しようとする性質をもっている。 馬が走るように、鳥が飛ぶように、人間の大脳は自己の文化を拡大し文明を推し進めようとする。都市化しようとする。他の大脳の働きよりも、自己の大脳の働きを有効化しようとする。 つまり人間は、個人としても集団としても、常に大脳の闘い、すなわち文化の闘いを演じる存在であり、戦争とは「文化の戦争」の特殊形態ではないか。というのが僕の仮説である。とはいえもちろん、これはリアルの戦争を肯定する論理ではない。