「賞は残酷やなァ」直木賞の選考委員に、作家の妻がホテルで迫ることも 必死すぎるハニートラップに心が痛んだ選考秘話【芥川賞・直木賞の炎上史】
2024年7月17日(水)に結果発表となった第171回芥川賞・直木賞。現在も世間の関心をひきつける権威ある賞であるがゆえに、審査を行う側のプレッシャーも大きい。1960年代から長く直木賞の選考委員を務めた水上勉によれば、ホテルで候補作を読み込んでいた最中、作家の妻が身体を差し出そうとしてきたこともあったという。川端康成や谷崎潤一郎など、文壇の大御所が委員として名前を連ねてきた芥川賞・直木賞の選考。その裏側がどんなものであったか、歴史を振り返ってみよう。 ■作家やその家族から懇願があいついだ 昭和10年(1935年)の創設から、現在にいたるまで170回以上続いている芥川賞・直木賞の歴史。第二次世界大戦中も一度も止まることなく、選考が続けられ、多くの逸話で満ち溢れているのには驚くほかありません。 文藝春秋社の文芸部門で長年編集者を務め、当然ながら芥川・直木の両賞に深く関係してきた高橋一清(かずきよ)氏による『芥川賞 直木賞秘話』には、昭和51年(1976年)前後の話として、直木賞の選考委員を務めていた作家・水上勉に「賞は残酷やなァ」と嘆息させてしまったエピソードが紹介されています。 直木賞の選考委員には、候補作の作家や、その家族からも「何卒よろしくお願いします」という訴えがあいつぐらしいのです。高橋一清氏の著書の行間を読むと、編集者としても選考委員が作品の優劣以外でなにか、推薦する理由を考えていないかどうか、さりげなく調査する必要があったようですね。 水上勉は「なにかお手伝いできそうなことがあれば」などと言いながら近づいてきた高橋氏の「本意」を見抜き、「このことは一清(いっせい)に覚えておいて欲しい」と前置きしてから、ある候補作の作家の妻が、ホテルに篭って候補作を読み込み中の水上勉に接触を試みてきたという話を始めたそうです。 ■必死のハニートラップに、むしろ心を痛めた 水上はハンサムでしたから、女性にはおおいにモテました。つまり女好きだったということです。その作家の妻は、水上とは昔の知り合いにあたり、夫に黙って水上のホテルを訪れたのことでした。 しかし、ホテルで水上と再会するや「夫を何とか男にして欲しい」――つまり、私の身体を差し出すから、それで夫の作品を推薦してほしいと口説いてきた彼女に、水上は指一本触れることはありませんでした。 逆に、あと一歩というところで芽が出ない作家の女房は、ここまで追い詰められるものか……と、大いに心を痛めてしまったそうです。 水上が高橋氏に会った瞬間に口にした「このことは(略)覚えておいて欲しい」という言葉は、「私はハニートラップに引っかかるような人間ではない」という意味だったのですね。 ■情にあつい川端康成、選考会に欠席しまくった谷崎潤一郎 直木賞・芥川賞の選考委員になることは、文壇の大御所であることの証明でもありましたが、選考以外でも苦労が発生しうる作業であるがゆえに、長年続けていくことはなかなかに難しいようです。 しかし、大物作家が選考委員に名を連ねている事実は、両賞の運営側――つまり文藝春秋社にとっては重要でした。川端康成は、目を悪くしたことを理由に昭和38年(1963年)の年末に芥川賞の選考委員を辞めたいという希望を速達で送ってきたものの、なんと昭和46年(1971年)まで編集者から慰留され、委員を続けさせられていますね。 逆に谷崎潤一郎などは昭和10年(1935年)の第1回から、昭和17年(1942年)の第16回まで芥川賞選考委員に名を連ねていましたが、選考会に一度も顔を見せず、欠席ばかり。おまけに選考文すら書いていません。 女好きでも文学には生真面目な水上、繊細で意外に情にあつい川端、そして徹底してエゴイストの谷崎……選考委員としての振る舞いひとつにも、彼らの文学を彷彿とさせる「何か」が感じられますね。 ※画像…現代長篇小説全集 第8 (谷崎潤一郎篇) 新潮社 昭4 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹