水深60mの戦没船から遺骨16柱…太平洋戦争の激戦地トラック諸島で30年ぶり調査
44年1月下旬、愛国丸は兵士を南方に運ぶため、神奈川県の横須賀港を出発。トラック諸島に到着後の2月17日、米空母艦載機の空襲を受け、海中に没した。大爆発を起こし、機関兵曹長だった忠三郎さんは数百人と運命を共にした。
松岡さんに父の記憶はない。戦死の知らせが届き、木造の学校校舎のような場所に、母のとみこさん、祖母の美登さんと一緒に遺骨を受け取りに行った記憶だけがうっすらと残る。寒い季節だったという。渡された木箱を揺するとガラガラと音がして、中に入っていたのは小石だった。祖母は「石ころをもらってもねぇ」と泣いた。
岡山市にあった自宅は空襲で焼かれ、戦後、母親と祖母の3人で6畳一間の粗末な自宅で暮らした。日々の生活に追われ、父のことが話題に上ることはほとんどなかった。松岡さんは「悲しませまいという2人の気遣いだったかもしれない」と振り返る。祖母は高校生の頃に鬼籍に入り、母も約50年前に亡くなった。
父への思いが強まったのは、2015年に参加したトラック諸島での政府主催の慰霊巡拝だった。現地に向かう前、父が赴任地から自宅に宛てた手紙に目を通した。
<俊坊よ。元気で早く大きくなってくれ><小生の行くところは一番安全な所だから、絶対に心配はない>
文面からは、息子の成長を願い、家族の不安を取り除こうとする父の真心が伝わってきた。同諸島に着き、愛国丸が沈む海域にボートで行き、水面(みなも)を見つめたとき、父の思いが迫ってくるような気持ちがした。
松岡さんは「静寂の海底で安らかに眠ってほしい」と願ってきた。しかし、近年は外国人ダイバーらが遺骨の写真をネット上に投稿するケースもあり、複雑な思いも抱いた。「父は自宅で子育てすることを楽しみにしていたはずで、無念だったと思う。墓で母と一緒にしてあげれば、母の供養にもなる」と語った。(川畑仁志)