読んで書いて稼ぐ晶子のタフネスを追う―神野藤 昭夫『よみがえる与謝野晶子の源氏物語』
必死の労働で大家族を食べさせた前人未到の女性芸術家──与謝野晶子。 世によく知られるのは明治34年のデビュー歌集『みだれ髪』であろう。同時に家出して歌の師・鉄幹と結婚したから、奔放で華麗な恋愛詩人と位置づけられる。 じつは結婚後の生活はきびしかった。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と酔いしれた恋の後は夢ではなかった。夫・鉄幹の詩歌革命は時代に見捨てられた。夫妻が天下に問う総合芸術雑誌『明星』はクローズした。収入が絶えた。鉄幹は心を閉ざした。 心配した実業家や出版社の声がけで、源氏物語を現代語訳する晶子畢生のしごとが始まる。源氏への愛と情熱、そして家計のために32歳からほぼ死ぬまでつづいた。その間いくども出産があり、『源氏物語講義』の原稿が丸焼けした関東大震災、第一次世界大戦、大恐慌、スペイン風邪流行があった。病むときも晶子は筆をとった。 本書はここを照らす。 夢みる美少女歌人のイメージから晶子を引きはがし、寝る間もけずって読んで書いて稼ぐ晶子のタフネスを追う。その象徴として彼女の画期的な源氏物語現代語訳のしごとを細密に探る。 少女時代から親にないしょで深夜に源氏物語を読みふけったという晶子。ひとりで何十回も読んだ。だから自信がある。初の縮訳『新訳源氏物語』では、私は先行の研究書を尊敬しない、と意気が高い。晶子はエッセイでこうも言う。 「紫式部は私の十一二歳の時からの恩師である」「全くの独学であつたから」「紫式部と唯二人相対して、この女流文豪の口づから『源氏物語』 を授かつた気がしてゐる」 いい、豪胆でいい、と著者はうなずく。 では晶子おとめ愛読の源氏物語とはどんなテキストだったのか。古典学者としてぜひ知りたい。 源氏は王朝の長大な物語。江戸時代には縮小本、参考本、註つき本がたくさん出版された。有名なのが国学者・北村季吟が註する『湖月抄』。でもこれも晶子は「原著を誤る杜撰の書」と一蹴する。ええーっ。 そう昔のことではないから痕跡があるはず。そう思って京都の鞍馬寺へゆく。ここには晶子が弟子たちから贈られた茶室・冬柏亭がある。遺品もある。その中に長男の手で母(晶子)秘蔵と箱に記される30冊の絵入り源氏物語がある。持ちやすい文庫本くらいの大きさといい、註の代わりに絵がゆたかに入る美装といい──これじゃないか、晶子が娘時代に耽読したのは! しかし30冊には大きな謎がある。晶子が読めたとは思えないほど傷む。とくに不審な水シミだらけ。たゆまぬ調査でこの謎も解ける。冬柏亭は晶子の死後、この絵入り源氏物語もろとも高弟の家へ移築された。ここが太平洋戦争で爆撃される。少年もまじえた家族が必死で注水し、 冬柏亭を守った。そうか、異常な水シミはその時のものか! 著者は六十代で志木の地に転居した。そこでできた新しい友人が奇しくもこの少年を知る縁の糸となった。晶子という磁石が呼ぶ人と人のつながりに感謝する。 こういう逸話が面白い。身体をはって晶子を追うゆえだ。鉄幹と晶子が滞在したパリの住居へもゆく。そこは歓楽街で、晶子は踊り子や娼婦に出会う機会が多かった。だから男女格差のない労働の価値にますます目覚め、源氏全訳のしごとに拍車がかかったと得心する。 晶子の現代語訳は自由すぎて評価しない人も多い。女性だから学が浅いとせせら笑われた時期もある。著者はちがう。原本の和歌さえ時にしなやかに詠み変える晶子の姿勢を「創造的言語」と讃える。森鷗外の名翻訳『即興詩人』にならぶ「近代の新鮮な翻訳文学」であると評価する。フェアな目が光る。 たとえば同時代の谷崎潤一郎の源氏全訳と比べる。学者の校閲をみずから求め、皇室への遠慮から光源氏と藤壺のタブーの恋をけずった谷崎に対し、晶子は凜々しいというか豪放というか……当然でしょ、という態度で最高の王族ふたりのイケナイ実事をきっちりと明かす。けた外れの度胸がある。 独学は貴い、とする著者の言葉が沁みる。今は古典を一日で読める超訳も続々と出る。しかし「場合によってはテキストは親切でない方がよい」。ジュニアの身で註もない原文に取り組み、紫式部を身近に感じつつ自由に読解し、「みずからを育て」た晶子を見よ。読む苦労はじぶんの力になると説く。 表紙を貴重なセピア色の写真が飾る。大正元年、パリの晶子、33歳。きものは優美な花柄ながら本人の頰もあごも痩せ、目は異常に光る。指もごつごつ節がある。明らかに働く人の手だ。 この意志と意地のつよい表情で晶子は西欧ヘデビューした。ジャーナリズムの取材にこたえ、男女が協力して働く未来社会への希望を唱えた。完成したての『新訳源氏物語』上巻を彫刻家ロダンへささげた。本書のテーマに最もかなう世界の「Akico」の肖像が表紙に選ばれた。 [書き手] 持田 叙子(もちだ のぶこ) 近代文学研究者。慶應義塾大学大学院修士課程修了、國學院大學大学院博士課程単位取得退学。1995年より2000年まで『折口信夫全集』(中央公論社)の編集・解説を担当する。2008年春に世田谷文学館で催された「永井荷風のシングル・シンプルライフ」展の監修を務める。著書に、『朝寝の荷風』(人文書院、2005年)、『荷風へ、ようこそ』(慶應義塾大学出版会、2009年、第31回サントリー学芸賞)、『永井荷風の生活革命』(岩波書店、2009年)、『折口信夫 秘恋の道』(慶應義塾大学出版会、2018年)、『おとめ座の荷風』(慶應義塾大学出版会、2023年)などがある。 [書籍情報]『よみがえる与謝野晶子の源氏物語』 著者:神野藤 昭夫 / 出版社:花鳥社 / 発売日:2022年07月15日 / ISBN:4909832580 毎日新聞 2022年8月27日掲載
八木書店 新刊取次部
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