『海に眠るダイヤモンド』なぜ神木隆之介は「一人二役」だったのか…近年まれに見る「骨太ドラマ」を読み解く
社会が忘却してきた記憶
こうして鉄平の日記は、いづみや玲央に読まれることで、時空を超えて、忘れ去られていた端島や炭鉱やそこで暮らしていた人々を蘇らせる。同時にこのドラマ自体も、歴史の地層に埋もれ社会が忘却していた記憶を可視化している。 日本の近代化を支えながら、鉄平や賢将や百合子が長崎で悔し涙を流したように差別的なまなざしに晒され、炭鉱の閉鎖と端島からの立ち退きという理不尽な運命に翻弄され、やがて忘れ去られた端島の人々に、私たちはこのドラマを通じて触れることができるのだ。 そこには百合子を苦しめる長崎の原爆の記憶も織り込まれている。幼い朝子の他愛ないいたずらのせいで被爆した百合子が、祭りの日に朝子に浴衣を着せながら「朝子が赦してくれなくても、私は赦す」と告げるシーンは、理不尽な運命を受け入れ赦すという、本作のテーマの一つを浮かび上がらせる。そのテーマは、殺人の罪を背負う鉄平と、鉄平を朝子から奪ったことを詫びる誠を赦すいづみに受け継がれる。 炭鉱の歴史は、通常は「鉱員」と呼ばれる炭鉱夫たちの物語として語られ、危険な坑内に入ることを許されない女性たちの物語が語られることはほとんどなかった。しかしここでは炭鉱の外側の女たちを中心とする生活が活写される。 それは「外勤」だった鉄平が、炭鉱の外側の暮らしを生き生きと日記に記録したからにほかならない。鉄平の日記は端島の人びとの生活史なのだ。その意味で本作は、脚本家の野木亜紀子、ディレクターの塚原あゆ子、プロデューサーの新井順子ら、女性の作り手たちが可視化した、もう一つの炭鉱の物語である。 個人的な記憶のアーカイブに過ぎなかった鉄平の日記は、玲央の登場により、いづみや玲央の集合的記憶となり、さらには社会的記憶として私たちに提示される。そこにこのドラマのスケールの大きさと深さがある。
何が「ダイヤモンド」だったのか
朝子はキラキラしたものが好きで、幼い頃にキラキラした瓶をとろうとして海に落ち、赤痢に感染する。苦しむ彼女のもとに鞍馬天狗に扮した幼い鉄平が訪れ、とれなかったガラス瓶を渡したのが、朝子の初恋となる。鉄平が朝子のために作ったガラス細工のギヤマンは、そこから繋がっている。 エンディングで玲央の声は語る。 「広大な海原。海に浮かぶ幾つもの島。何千万年もの昔に芽生えた生命が、海の底で宝石へと変わる。見えなくてもそこにある。あの島で眠るダイヤモンドのように」 海に眠るダイヤモンドとは、今も海底の奥深くに眠る「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭であり、炭鉱で働いた人々やその家族たちの社会から忘却された生活史であり、鉄平が朝子のために作ったギヤマンであり、それを渡せなかった鉄平の想いでもある。このドラマは、目に見えないすべてのキラキラしたものたちへの鎮魂のドラマでもある。 しかし端島や炭鉱の記憶を忘却し、眠っていたのはむしろ私たちの社会のほうなのかもしれない。赤の他人で端島とは無関係な玲央は、端島の記憶をいづみ個人の記憶にとどめず、私たち視聴者に、そして社会に想起させる役割をも担う存在となっていく。 最終話のエンディングでは、金髪を黒髪に戻した玲央はすっかり鉄平化し、ツアーガイドになっている。そしてその理由をこう語る。 「知らない土地へ行ったとき、考えるんだ。もしかしてここにも、鉄平が来たかもしれない。そしたら誰も他人に思えない。鉄平が声をかけた人かもしれないし、その子供かも、孫かもしれない」 玲央は、最終的に、鉄平の記憶を受け継ぐとともにその「一島一家」の精神の継承者となっていく。端島の記憶を社会に想起させる記憶再生装置であり続けるために。
岡室 美奈子(早稲田大学演劇博物館前館長・早稲田大学文学学術院教授)