【驚愕】ダブル不倫の次は19歳下の恋!? 田村俊子のスランプ克服の秘策
正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開! ● カナダへ“ダブル不倫逃避行” の末に帰国すると…… 田村俊子(たむら・としこ 1884~1945年) 東京生まれ。本名・佐藤とし。日本女子大学校国文科中退。代表作は『木乃伊の口紅』。浅草の商家に生まれ、明治の女子教育のはしりであった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・附属高等学校)に入るものの、1年も経たずに退学。文芸界の重鎮であった幸田露伴の門下生となる。執筆活動と並行し、「花房露子」という芸名で俳優デビュー。雑誌『青鞜』に、一夜をともにした男女の姿を鮮烈に描いた『生血』が掲載され話題に。ろくに働かず文学修業ばかりしている夫・田村松魚に呆れ、不倫をしてスキャンダルに。海外生活が長く、夫と別れたあとは18年カナダで、晩年は中国で暮らした。昭和20(1945)年、上海で脳溢血により倒れ、60歳で死去。 田村俊子は、2歳年下の朝日新聞記者・鈴木悦と恋に堕ち、カナダへ“ダブル不倫逃避行”をして、鈴木とともにバンクーバーへと移住しましたが、昭和11(1936)年、鈴木が亡くなります。 そこで俊子は18年ぶり、52歳のときに日本へと帰国します。 ● 原稿のオファーが殺到するも…… 人気作家として名を馳せていた俊子は、日本で執筆活動を再開するだろうと期待され、原稿のオファーが殺到しました。 しかし、どうしても、かつてのようにはうまく書けない、筆が進まない……俊子は、ふたたびスランプに陥ってしまったのです。 ● 社会主義運動が盛んに 大正6(1917)年のロシア革命の影響を受けた日本の「プロレタリア文学」の代表的な小説家・小林多喜二が、昭和8年(1933)年に警察によって虐殺されたこともあり、このころは日本でも社会主義運動が盛んになっていました。 そして、女性作家のなかにも、労働者の現実を描いたプロレタリア文学に関わる人が現れました。戦後も活躍した佐多稲子などが、その代表です。 『キャラメル工場から』は、プロレタリア文学の代表作とされる名篇ですが、稲子はカナダでの経験を経て、満を持して戻ってきた俊子にも、大いに期待を寄せていたようです。 ● どうやってスランプを 乗り越えようとしたのか? では、俊子はどうやってスランプを乗り越えようとしたのか? ここがさすがに文豪というべきか、びっくりしてしまうところなのですが、あろうことか俊子に期待していた稲子の夫であり、19歳年下の評論家・窪川鶴次郎と不倫の恋に堕ち、その経験を小説『山道』に書いてしまうのです。 ● 亡くなるまで中国で過ごす 結局その後、俊子は日本を離れて、当時、日中戦争によって日本が占領していた中国にわたります。 そして昭和17(1942)年、中国語の女性誌『女声』を創刊し、昭和20(1945)年に上海で亡くなるまで中国で過ごします。 ※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
富岡幸一郎