ホテル引きずり出し事件―スウェーデンの貴族文化vs中国の農村文化
中国は文明、日本は文化
世界には、文明と文化をハッキリ区別する国とそうでない国がある。 イギリス、フランス、アメリカ、中国などは区別しない国であり、日本、ドイツ、ロシア、その他多くの国は区別する国である。 つまり区別しない国は、自らが文明の中心という意識が強い。中国が北京オリンピックで、紙と印刷と火薬と羅針盤を四大発明としてアピールしたのはその中心意識の現れである。また中国人が「東洋文明」という言葉を使う場合はほとんどそのまま中国文明ということで、イスラム圏やインドや日本などは眼中にない。中国は西洋文明に対峙すべき東洋文明の中心国であるという思想だ。 一方日本は、常に日本文化とその独自性を主張するのであって、文明を主張することはほとんどない(東洋の盟主を気取った一時期を除いて)。そしてかつては中国からの文字とインドからの宗教を文明として取り入れ、明治以後は西欧文明、近代文明を躊躇なく学び、そのままのかたちで取り入れてきた。 しかし中国は、科学、技術、経済の物理的側面を取り入れることはあっても、西欧文明の精神的な側面までを学ぶように取り入れるという感覚は希薄だ。 現在世界の規範性が、欧米すなわち西欧文明を中心とする歴史によって形成されたものであっても、日本人はそれを受け入れ西欧文明の一角に加わろうとするのであるが、中国人はそうではない。日中の近代化、現代化、経済発展は、外形は同じように見えても、文化的な内実には異なる方向の力が働いている。 ホテル引きずり出し事件でもそのことが現れている。 つまりこの小さな事件は、スウェーデンというヨーロッパ文明の極北というべき貴族文化と、東洋文明の中心を自認する中国の農村文化との衝突であり、両国の風土と歴史に培われた文化の力なせる技なのだ。世界の各地で、これに近い事件は無数に起きている。 そしてその力学は、西欧と中国の間に置かれた日本にも無縁とはいえない。日本文化は中国文化の親類と思われている面もある。世界の文化はすべて相互関係の中に置かれているのであり、われわれはその文化と文化の軋みを生きざるをえないのだ。
追記
サミュエル・ハンチントンは「文明の衝突」という言葉を使ったが、文化論を書いてきた僕としては、むしろ「文化の衝突」だと考えている。ある文化が都市化(文明化)しようとする過程で他の文化と衝突するので、文明の衝突あるいは文明と文化の衝突として現れるのだ。前に「戦争は文化現象である」と書いたが、国家の紛争にも、個人や集団の紛争にも、文化の軋轢が根底にある。