孤立集落・南志見の“全住民”避難はなぜ決行された?「急転直下過ぎて」選択迫られ被災者は
「ほっとした。夕べはよく寝られた。身軽なもんでほとんど貴重品だけ持って来た」(集団避難してきた高齢女性) 避難してきた人は安どの表情を浮かべました。 しかし避難生活が長くなるにつれ、望郷の念も膨らんできます。 「主人もお墓入れてきたし、子ども2人もお墓入れてきた。やっぱり帰って朝晩、おはようやおやすみを言いたい。輪島の南志見に帰りたいね」(別の高齢女性) ■「能登に人がいなくなる」集落に残る決断をした人たち 一方で集団避難せず、南志見に留まることを決めた人も。 山崎正彦さん 「向こう行ってバラバラになって、帰ってくる人何人おるかなあ。寂しい」 工務店を営む山崎正彦さん。断水がつづく地域に残った人々の間を奔走していました。雨水をためて風呂や洗い物に使えるよう供給用のポンプを設置しています。 山崎正彦さん 「雨どいに落ちてきた水がそこをつたってタンクに。勝手に考えてやっとるだけ、教科書にもない。使命感というか…ここに育てられて恩返しやね」 輪島市議会議員の大宮正さんも、住み慣れた土地に残る決断をしました。 大宮正 市議会議員 「この町を俺が守るぞってこの分団でずっとやってきたんや、生意気にも」向こうで仕事見つけて子供のためにもという方向に向かれたら輪島市は怖いな。1日も早く復興せんと能登全体が人間いなくなる」 多くの住民は二度と南志見に戻ってこないのでは…そんな不安を振り払うかのように、閑散とした町をパトロールして周ります。 大宮正 市議会議員 「とにかく1日でも早く皆さんがここに帰ってこれるように…それだけ」 地震で多くのものが失われた中…無事だったものも。 ■叩き手は各地に離散…御陣乗太鼓も白山市へ 太鼓の音が再び轟く日は 名舟でおよそ450年の間、受け継がれる県の無形文化財「御陣乗太鼓」。叩くのが許されるのは名舟町に住む男衆だけ。毎年1月2日は地元の神社で打ち初め式が行われ、新年の始まりを祝ってきましたが、今年、太鼓の音が響くことはありませんでした。 「私たちの太鼓大丈夫でしたか」「大丈夫でした、お預かりしています」 地震の難を逃れた太鼓や面は、白山市の浅野太鼓楽器店に運ばれ、保管されています。保存会の代表・槌谷博之さんも29日、自身の面や衣装を預けに来ました。しかし、メンバーはそれぞれの避難先で不自由な生活を余儀なくされています。
御陣乗太鼓 槌谷博之 代表 「(各地に避難して)私自身まだ1回も会えていないメンバーもたくさんいるので、これからです。大勢の客の前で披露したい」 3月16日の北陸新幹線敦賀開業での披露を目指して、2月から練習を再開する予定です。
北陸放送